遼東・高麗(ソロンカ・カウリ)方面
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「タンマチ」の記事における「遼東・高麗(ソロンカ・カウリ)方面」の解説
遼東・高麗(ソロンカ・カウリ)方面のタンマチがいつ派遣されたかについては議論があるが、『元史』巻149王珣伝には1229年以前にタンマチが遼東に現れたことが示唆されており、他のタンマチが派遣されたのと同じ1228年頃にモンゴル高原より派遣されたのではないかと推測されている。タングート方面タンマチが西道諸王の強い影響下にあったのとは対照的に、遼東・高麗方面タンマチは東道諸王(チンギス・カンの諸弟を始祖とする諸王家)との密接な連携の下活動した点に特徴があった。 このタンマチの最初の司令官はサリクタイ・コルチで、彼は「元帥」或いは「権皇帝」と称していた。これらの称号はチンギス・カンの時代に東アジア方面の司令官として活躍していたムカリの称号であり、サリクタイはムカリの権限を一部受け継ぐ形で遼東軍を指揮したものと考えられている。実際に、サリクタイ率いるタンマチの主力はかつてムカリの指揮下で遼東を転戦した契丹軍・女真軍であり、契丹軍はウヤル、女真軍はテゲ・コルチによって率いられていた。 1228年より遼東の敵対勢力を鎮圧したサリクタイは、1231年に鴨緑江を渡って高麗への攻撃を開始した。モンゴル帝国は既に一度高麗に兵を派遣しており、その際和平が結ばれていたが、1225年に高麗に派遣されたモンゴル使節が殺害されるという事件が生じていたため、その報復を口実としての出兵であった。 各地で高麗軍を破ったサリクタイは同年末に首都開城を包囲し、翌1231年には高麗は一旦モンゴル帝国に降伏しダルガチの設置を受けいれた。しかしそれから半年後に高麗はダルガチを殺害して叛旗を翻し、朝廷を江華島に移し徹底抗戦の構えを取った。そのため再びサリクタイがタンマチを率いて高麗へ侵攻したが、同年末に処仁城の戦いでサリクタイは戦死してしまった。そこで副将のテゲ・コルチが軍を率いて撤収し、新たにタングト・バートルが司令官に任命されてタンマチを率い高麗へ攻め込んだ。 オゴデイ死後カアン位を巡る争いなどにより周辺諸国への出兵は縮小したが、第4代皇帝モンケの治世より高麗への侵攻も本格化する。まず、チンギス・カンの弟ジョチ・カサルの息子イェグが1253年より侵攻を開始して、全州以北の諸城を攻略し忠州を包囲したが、果たせずして一時帰還した。しかし、イェグは他の王族と諍いを起こしてしまったために更迭され、新たにタンマチ指揮官としてジャライルタイ・コルチが抜擢され、征東元帥という称号を与えられて派遣された。ジャライルタイ・コルチの派遣は『元朝秘史』においてもタンマチ派遣の一つとして記録されている。 ジャライルタイ率いる高麗侵攻は今までにない大規模なものであり、『高麗史』巻24高宗世家3にはジャライルタイの侵攻を指して「モンゴル兵の侵攻が始まってより、この時ほど[被害が]甚大であったことはない(自有蒙兵之乱、未有甚於此時也)」とまで記されている。しかし高麗朝廷の実権を握っていた崔氏一族が失脚すると高麗は方針転換してモンゴルに投降することとし、モンゴルの要求に従って世子の王倎をモンケの下に派遣することになった。王倎がモンゴル帝国領に入った頃、モンゴルではモンケの急死によってクビライとアリク・ブケの間で帝位継承戦争が勃発しており、クビライは自らの陣営にやってきた王倎を歓迎した。クビライの内戦勝利後も高麗は反復常ならない国として警戒されていたが、クビライの娘クトゥルク=ケルミシュ公主の降嫁によって高麗王家はモンゴル帝室の駙馬と位置づけられ、皇族に準ずる待遇を受けることになった。その後、東方におけるモンゴルに未だ服属していない勢力は日本だけとなったので、日本征伐を統轄するために征東等処行中書省が設置され、高麗内の軍事については征東行省に委ねられた。
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遼東・高麗方面
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高麗方面タンマチについても史料が少なく、 詳細な編成などは不明である。ただし、『高麗史』の記述から他のタンマチと同様に4つの部隊から成る軍団であったことが明らかにされている。 地位名前ペルシア語表記漢字表記出身部族備考第1万人隊長 権皇帝サリクタイ 撒里答(sālǐdā) 不明 初代高麗方面タンマチ隊長 第2万人隊長 蒲桃元帥 蒲桃(pútáo) 不明 金郊に駐屯していた 第3万人隊長 テゲ元帥 迪巨(díjù) 女直人 大真国国王蒲鮮万奴の息子で、吾山に駐屯していた 第4万人隊長 タングート元帥 تنگقوت بهادر (tangqūt bahādur) 唐古(tánggŭ) 不明 『集史』に言及があり、蒲里に駐屯していた
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