チンギス・カンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 06:48 UTC 版)
13世紀初頭、バイカル湖の東にはコリ,コアラシュ(トゥラス),ブリヤト,トゥマトの4種族が住んでおり、彼等はバルグト族と総称されていたが、“バルグト”とはセレンガ川のかなたの彼らの領土の位置を示すものであり、その地方はタタル諸族の住む東北の境界をなしているので、“バルグジン・トグム”(「バルグジン川の境界」の意)とも呼ばれていた。彼らの北隣りにはフラガチン,ケレムチン,森のウリヤンギトの諸族が住む。 キルギズ族に隣するトゥマト族は好戦的な民族であるが、その首長タイトウル・ソカルがモンゴルの征服者チンギス・カンの不在に乗じて、その同盟を絶とうとしていたため、チンギス・カンは1217年にボロウル・ノヤンに命じてトゥマト族を撃ち破った。しかし、ボロウルが戦死したため、家族のことを委ねられていたチンギス・カンはその諸子に対して多大な厚遇をしてやった。トゥマト族を征服するに際し、チンギス・カンは隣のキルギズ族に対して出兵要請をしていたが、キルギズ族がこれを拒んだため、子のジョチに命じてキルギズ族も征服させた。
※この「チンギス・カンの時代」の解説は、「トゥメト」の解説の一部です。
「チンギス・カンの時代」を含む「トゥメト」の記事については、「トゥメト」の概要を参照ください。
チンギス・カンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 20:35 UTC 版)
チンギス・カン率いるキヤト・ボルジギン氏から離れて遊牧するカタギン氏・サルジウト氏はあまりチンギス・カンに好意的でなく、カタギン部族長バクゥ・チョロギ(Baqu Čorogi)とサルジウト部族長チルギダイ・バートル(Čirgidai Ba'atur)はタイチウト、ドルベン、タタルといった諸族と協力してジャムカをグル・カンに擁立し、チンギス・カン率いるキヤト・ボルジギン氏と対立した。 カタギン氏・サルジウト氏は何度もチンギス・カン率いる軍隊と闘った末、最終的にナイマン部が敗れた時にカタギン氏・サルジウト氏はチンギス・カンに降伏した。しかし『集史』によると長期間にわたる戦争によってカタギン氏・サルジウト氏の兵の多くは殺され、生き残った者は皆奴婢の身分とされた。また、この時チンギス・カンは「[我が一族は]彼等の娘は娶らないし、[彼等に]娘を与えもしない」と語ったという。実際に、カタギン氏・サルジウト氏出身の人物で1206年チンギス・カンがモンゴル帝国を建国した時、千人隊長に任ぜられた者は一人もいなかった。 チンギス・カンによるモンゴル帝国建国後、幾人かの人材を輩出したサルジウト部と異なり、モンゴル帝国時代にカダギン部出身の人物についてはほとんど記録が残されていない。僅かに、オルク(月魯)という人物が「カダギン(哈達吉)」と名のった事例が知られているに過ぎない。
※この「チンギス・カンの時代」の解説は、「カタギン」の解説の一部です。
「チンギス・カンの時代」を含む「カタギン」の記事については、「カタギン」の概要を参照ください。
チンギス・カンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 20:12 UTC 版)
チンギス・カン率いるキヤト・ボルジギン氏から離れて遊牧するカタギン氏・サルジウト氏はあまりチンギス・カンに好意的でなく、カタギン部族長バクゥ・チョロギ (Baqu Čorogi) とサルジウト部族長チルギダイ・バートル (Čirgidai Ba'atur) はタイチウト、ドルベン、タタルといった諸族と協力してジャムカをグル・カンに擁立し、チンギス・カン率いるキヤト・ボルジギン氏と対立した。 カタギン氏・サルジウト氏は何度もチンギス・カン率いる軍隊と闘った末、最終的にナイマン部が敗れた時にカタギン氏・サルジウト氏はチンギス・カンに降伏した。しかし『集史』によると長期間にわたる戦争によってカタギン氏・サルジウト氏の兵の多くは殺され、生き残った者は皆奴婢の身分とされた。また、この時チンギス・カンは「[我が一族は]彼等の娘は娶らないし、[彼等に]娘を与えもしない」と語ったという。実際に、カタギン氏・サルジウト氏出身の人物で1206年チンギス・カンがモンゴル帝国を建国した時、千人隊長に任ぜられた者は一人もいなかった。
※この「チンギス・カンの時代」の解説は、「サルジウト」の解説の一部です。
「チンギス・カンの時代」を含む「サルジウト」の記事については、「サルジウト」の概要を参照ください。
- チンギス・カンの時代のページへのリンク