モンゴル帝国時代
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モンゴル語年代記の一つ、『シラ・トージ』ではホイト部の始祖を「ヤバガン・メルゲン(Yabaγan mergen)」であるとし、フダハ・ベキ(クドカ・ベキ)の息子のイナルチとトレルチの末裔がホイトの首領であると記している。クドカ・ベキに始まるオイラト王家はコンギラトのアルチ・ノヤン家に次いでチンギス・カン家に複数の妃を輩出した有力姻族であったが、モンケ・カアン死後の帝位継承戦争においてアリクブケ側についたため、これ以後元朝においては有力姻族としての地位を失った。 帝位継承戦争に続き、「シリギの乱」においてもオイラトはアリクブケの子孫に協力したため、オイラトは一時衰退した。しかし、1291年にオイラトの地からキルギスに至る駅伝路ができると状況が変わり、キルギスからオイラトを経て、モンゴリアにおける元朝の拠点であるカラコルムやチンカイへの交易ルートが確立したことによってオイラト部は経済的に活性化した。
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モンゴル帝国時代
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サルジウト部は1206年時点でこそモンゴル帝国で千人隊長クラスの人材を出していなかったものの、この後サルジウト部出身の人物幾人かがチンギス・カンに仕えて著名になった。彼等は主に東アジアを活躍の舞台としたため、『元史』に列伝が立てられている。チュンジカイ(純只海)、ボロルダイはチンギス・カンのケシクに入って功績を挙げ、やがて中国方面の将軍として抜擢されるようになった。 また、ウヤルは旧金領のキタイ軍を統轄して千人隊長に任ぜられ、『集史』でもウーヤール・ワーンシーとして記録されている。
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モンゴル帝国時代
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12世紀末、モンゴル部内でキヤト・ボルジギン氏のテムジン(後のチンギス・カン)が台頭すると、これに対抗するタイチウト氏などとの間で内部抗争が生じるようになった。テムジンとタイチウトが支持するジャムカとの間で最初の戦いが生じた時(十三翼の戦い)、テムジン側の味方は少なかったにも関わらず、ソルカンの率いるバヤウト部はテムジン側に立って奮戦した。 この時の功績を嘉し、後にチンギス・カンはバヤウト部を「譜代家人」として遇し、オングルやソルカンらバヤウト部出身者を千人隊長として取り立てた。また、この時の功績によってバヤウト部とチンギス・カン家は姻戚関係を結ぶようになり、バヤウト出身のブカはチンギス・カン家の女性を娶り、「キュレゲン(婿)」を称した。そして、後述するようにバヤウト部は 定期的にチンギス・カン家に妃を輩出する家系として知られるようになった。
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モンゴル帝国時代
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1206年、チンギス・カンがモンゴリアを統一してモンゴル帝国を建国すると、アルチ・ノヤンの家系は有力姻族として重視されるようになった。「姉妹交換婚」によってアルチ・ノヤンの息子チグがチンギス・カンの娘トマルンを娶り、チンギス・カンの長男ジョチがアルチ・ノヤンの娘オキ・フジンを娶った。またチンギス・カンの次子チャガタイもアルチ・ノヤンの従兄弟カタ・ノヤンの娘イェスルンを娶っていたが、オゴデイ・トゥルイは有力姻族たるコンギラトの女性と結婚することができなかった。しかしチンギス・カンの孫の世代になるとオゴデイ家とトゥルイ家が積極的にアルチ・ノヤン家と婚姻を結ぶようになり、オゴデイの息子クチュがアルチ・ノヤンの孫娘カタカシを娶り、アルチ・ノヤンの孫ノカがオゴデイの娘ソルカカンを娶った。トゥルイ家では長子モンケがアルチ・ノヤン家出身ではないもののコンギラト出身の妃を三人娶り、早世した次男ジョリケがアルチ・ノヤンの娘ブルガイを娶り、クビライもアルチ・ノヤンの娘チャブイを娶った。 しかし、同時期にオイラト部のクドカ・ベキ家がアルチ・ノヤン家に次ぐ有力姻族として急速に婚姻関係を広めており、ジョチ家とチャガタイ家やアルチ・ノヤン家と姻戚関係を結べなかったトゥルイ家のフレグとアリクブケがクドカ・ベキ家の女性を娶った。加えて新にカアンとなったモンケによってオゴデイ家に弾圧が加えられ、モンケ自身もクドカ・ベキ家との婚姻関係を重視するようになったため、一時的にアルチ・ノヤン家の地位は低下した。
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モンゴル帝国時代
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チンギス・カンがモンゴル高原の諸部族を統一し、1206年にモンゴル帝国を建国した頃、バイカル湖周辺にはバルグトと呼称される諸部族が居住していた。 『元朝秘史』によると、チンギス・カンは兎の歳(1207年)に長男ジュチを派遣し、未だモンゴル帝国に帰順していない北方の諸部族、オイラト、ブリヤート、バルグン、ウルスト、カブカナス、カンガス、トバスなどを征服させたという。
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モンゴル帝国時代
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『集史』ウリヤンカト部族誌では、ウリャンカイを北方の森林地帯に住む「狩猟民ウリャンカイ族」と、モンゴル化され草原地域に進出した「遊牧民ウリャンカイ族」とに二分して説明している。ウリヤンカト部族誌では、もともと「狩猟民ウリャンカイ族」はヒツジもウシもヤクの類いも知らず放牧地も(フェルトの)天幕の住居も知らず、皮製の覆いで生活していたが、たまたま自分達の居住地に迷い来んだヒツジを発見し、やがてそのヒツジやウシの生育場所を探すうちに森林地帯から草原に進出したという、「遊牧民ウリャンカイ族」の起源説話を伝えている。『集史』では、森林地帯に居住し続けている前者の「狩猟民ウリャンカイ族」を、「森のウリヤンカト」( اوريانكقت بيشه Ūriyānkqat-i bīsha)と呼んでいる。また、この「森のウリヤンカト」はコリ・トマトやキルギスなどとも境を接していたという。モンゴル帝国時代に活躍したウリャンカイ部出身者としては、いわゆる「四狗」(dörben noγas)のジェルメ、スブタイ両名がいる。 上述の「狩猟民ウリャンカイ族」と「遊牧民ウリャンカイ族」の2種類はほぼ現在でも当て嵌まり、前者はソヨン Soyon とも称される「モンゴル・ウリャンカイ」「アルタイ・ウリャンカイ」に、後者は「タンヌ・ウリャンカイ」、トゥバ人らの生活形態に相当する。
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モンゴル帝国時代
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『集史』「スニト部族志」では前述したようにスニト部の起源についてほとんど言及せず、主にスニト部出身の将軍チョルマグンとチョルマグンの率いていたタンマチについて詳しく説明する。チョルマグンは1228年に4万人隊からなるイラン方面タンマチ(辺境鎮戍軍)司令官としてイラン方面へ派遣された人物で、ホラズム・シャー朝の残党を追ってイラン西北部・アゼルバイジャン・グルジア・東部アナトリア一帯を平定し、モンゴルによる西アジア征服に大きな功績を挙げた。タンマチ司令官の地位はバイジュ・ノヤンを経てチョルマグンの息子シレムンに受け継がれたが、シレムンの諸子はフレグ・ウルスの内乱に巻き込まれて多くが処刑されてしまい、チョルマグン家は早くに断絶してしまった。 また、チンギス・カンに仕えたスニト部出身の将軍には「親衛千人隊」所属の百人隊長エル・テムル・バウルチ、左翼千人隊長のテムデル・ノヤン、右翼千人隊長のカダアン・ダルドルカン、中軍万人隊長のドダイ・チェルビらがいるが、何故かこれらの将軍の子孫についてはほとんど史料上に言及がなく、大元ウルス以後に活躍したスニト部出身者はほとんど記録がない。
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モンゴル帝国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 17:10 UTC 版)
13世紀初頭、チンギス・カンによってモンゴル帝国が建国されると、メクリン部もまたモンゴル帝国の傘下に入った。モンゴル帝国に投降したメクリン部の長は娘のモゲ・カトン(Mūkāī Khātūn)を差し出し、チンギス・カンはモゲ・カトンを寵愛したが、子供はできなかった。モンゴル帝国時代、メクリン部の住地はオゴデイ家・チャガタイ家と近かったため、この両家との関係が深かった。
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モンゴル帝国時代
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「マー・ワラー・アンナフル」の記事における「モンゴル帝国時代」の解説
ホラズム・シャー朝滅亡後は各都市にダルガチ(行政総督)が置かれてモンゴル帝国の行政区に組み込まれた。1222年秋にチンギス・カンは契丹人の耶律阿海親子をマー・ワラー・アンナフル総督に任じ、阿海と各都市に派遣されたムスリム官僚は荒廃したマー・ワラー・アンナフルの復興に着手した。チンギス・カンの跡を継いだオゴデイ・ハーンの時代、中央アジアはオゴデイの兄チャガタイの私領に定められ、ダルガチに就任したマフムード・ヤラワチとその息子で父の後任となったマスウード・ベクの親子の元で中央アジアの諸都市は著しい回復を見せる。 1259年のモンケ・ハーンの死後、中央アジアではオゴデイ家のカイドゥやチャガタイ家のバラクが台頭した。モンゴル帝国の中央アジアの財務当局はこれら王族同士の紛争によって、当時中央アジアで最も勢力が大きかったカイドゥの支配に吸収されてしまった。1301年のカイドゥの死後はチャガタイ家のドゥアが東はイリ地方一帯からマー・ワラー・アンナフル全域まで支配した。1320年頃にチャガタイ・ハン国の当主に即位したケベクは定住民との関係を重視し、マー・ワラー・アンナフルに居住するモンゴル人は都市生活とイスラーム文化に適応していった。都市生活に馴染んだマー・ワラー・アンナフルのモンゴル人と伝統的な遊牧生活を固守するハン国東部のモンゴル人の対立が深まり、1340年代にチャガタイ・ハン国は東西に分裂する。 1358年に西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンが暗殺された後、西チャガタイ・ハン国の各地で有力アミール(貴族)が割拠する状態に陥る。モグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の君主トゥグルク・ティムールは混乱するマー・ワラー・アンナフルに侵入し、1361年に一時的にチャガタイ・ハン国を再統一する。この過程の中でマー・ワラー・アンナフル内部を根拠地とするチャガタイ家のアミール層の中からバルラス部族のティムールが頭角を現し、モグーリスタンを根拠地とする他のドゥア裔のチャガタイ家の王族たちと支配地域を分けるようになる。
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モンゴル帝国時代
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『元朝秘史』によると、チンギス・カンの父イェスゲイ・バートルはタタル部に毒を盛られた時、コンゴタン部のチャラカ・エブゲンの息子モンリク・エチゲを呼び出し、イェスゲイの遺族の面倒を見ること、妻(ボルテ)を娶るためにコンギラト部に滞在していたテムジンを連れ戻すことを頼んだという。 イェスゲイの死後、その配下の遊牧民の多くは若いテムジンを見限って去ろうとしたため、チャラカ・エブゲンはこれを留めようとしたが逆にタイチウト人のトドエン・ギルテによって後ろから槍で刺されてしまった。重傷のチャラカ・エブゲンを見舞ったテムジンは事の次第を聞いて、泣きながら立ち去ったという。 モンリク・エチゲも一時的にタイチウトのジャムカの下にいたが、十三翼の戦いの後に再びチンギス・カンの下に帰参した。モンリク・エチゲはチンギス・カンの実母ホエルンと結婚したことやケレイト部オン・カンの企みを看破した功績などによって全御家人(ノコル)中最高位に位置づけられ、『元朝秘史』の「功臣表」では第一位に列せられている。また、モンリク・エチゲの息子たちの内3人(トルン・チェルビ、スイケトゥ・チェルビ、ダイル)が帝国の支配層たる千人隊長(創設時は88人のみ)に選抜されるなど、一族全体が破格の扱いを受けていた。 このような厚遇の下、モンリク・エチゲの長子テプテングリはモンゴル帝国の大シャーマンを務めて増長し、チンギス・カンの親族を侮るまでになった。弟達からテプテングリの増長を訴えられたチンギス・カンは遂に意を決してテプテングリを処刑させたが、他のモンリク・エチゲ一族は助命し、これ以後コンゴタンの特殊な権威は衰えた。コンゴタン部がモンゴル帝国建国期に急速に勢力を拡大したのは、チンギス・カンの国政改革(絶対的なカン権力の確立、旧来の部族の解体)に不安を覚えた一部に臣民がシャーマンによる神権的政事を支持したためではないかと推測されている。このテプテングリ殺害事件以後、チンギス・カンは大規模な造反・内乱に遭うことなく内政・外征を終えている。 しかし、テプテングリの処刑後もコンゴタン家のシャーマンとしての役割が失われたわけではないようで、『元史』によるとチンギス・カンの孫モンケは「コンゴタン(黄忽答)部の天象を知る者(=シャーマン)」から「モンケ」という名前を名付けられたという。
※この「モンゴル帝国時代」の解説は、「コンゴタン」の解説の一部です。
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