耶律阿海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 09:54 UTC 版)
耶律 阿海(やりつ あかい、生没年不詳)は、初期のモンゴル帝国に仕えた政治家。
遼の宗室である契丹貴族の耶律撒八児の孫で、耶律脱迭児の子。弟は耶律禿花。子は耶律忙古台・耶律綿思哥・耶律捏児哥ら。甥は耶律朱哥・耶律買住(耶律禿花の諸子)。耶律阿海の子孫は大元ウルスの統治下で代々繁栄した。
生涯
阿海の祖父は金朝に仕えて「桓州尹(西北路招討司の都監)[1]」に任じられた人物で、金の世宗の治世に金朝の西北国境=モンゴル高原方面の守備を担当していた[2][3]。父の脱迭児もまた尚書奏事官の地位に就いており、阿海・禿花兄弟は金朝の西北国境(桓州)を拠点とする、金朝末期の高官の家に生まれ育った[4]。『元史』の列伝によると、阿海は騎射に優れ、漢語・モンゴル語・テュルク語など諸国の言語に通じていたという[5]。
ある年、阿海が金朝の使者としてケレイトのオン・カンのもとを訪れた際、当時ケレイトと同盟を結んでいたチンギス・カンと面識を持つ[4]。この時、阿海は「奢侈に流れた金国はいずれ滅びるでしょう」と進言し、この言にチンギス・カンが喜ぶと、翌年に弟の耶律禿花を質子(トルカク)に差し出して(禿花はケシクに入り、親衛隊(ケシクテイ)としてチンギス・カンに近侍した。質子とは形式の上であり、実質的には兄弟が揃ってチンギス・カンに仕えたことになる)チンギス・カンに仕官した[4]。以後、阿海はチンギス・カンの参謀として従軍し、戦陣においては常にチンギス・カンの左右にあったという[6]。
1202年(壬戌)、ケレイトにカラ・カルジトの戦いで敗れたチンギス・カン一行がモンゴル高原北方に退避した際に共にバルジュナ湖の濁水をすすった19人の功臣には、阿海と禿花兄弟も含まれている[7]。チンギス・カンがオン・カンを破ってモンゴル高原の大部分を統一した後、金朝朝廷は阿海が戻らないことを訝しみ、その家族を拘留したが、阿海は意に介せずチンギス・カンの覇業を支えた。このことを知ったチンギス・カンは貴臣の娘を妻として与え、阿海の忠誠に報いたという。1203年(癸亥)冬には西夏遠征に従軍し、功績を挙げている[8]。
1206年(丙寅)にモンゴル高原を統一したチンギス・カンがモンゴル帝国を建国した後は、漢南(金朝)への侵攻に従事するようになった。金朝討伐戦が始まると、阿海・禿花兄弟は金朝治下の契丹族を内応させ、現在のドロン・ノール付近にあった金朝の官牧(国営牧場)からの軍馬奪取及び契丹族のモンゴルへの帰順に貢献した。1211年(辛未)には両軍の最大の激戦となった野狐嶺の戦いにも加わっている。1213年(癸酉)にモンゴル軍は宣徳・徳興を攻略し、遂に華北平原に本格的に進出したが、この時阿海はチンギス・カンに無闇な殺戮をやめるよう進言したという[9]。
また、1214年の金朝の宣宗による開封遷都の際に契丹族・タングート族等の混成による騎兵部隊の乣軍が将のチョダに率いられて反乱を起こし中都を包囲した時に、石抹明安らとともに中都攻略を進言した。チンギス・カンは史天沢を主将とする、阿海・禿花・石抹明安らが補佐をする契丹族が主力の軍を攻略戦に送り込むことを決断、中都は10カ月の包囲の後、1215年に中都留守の完顔福興の自害により陥落した(中都の戦い)。この時帰服した同族の耶律楚材をチンギス・カンに推挙した。
以上の金朝出兵の功績により、阿海は太師・行中書省事の地位を、禿花は太傅・濮国公の地位を、石抹明安は太保・邵国公の地位を、それぞれ拝命した[10]。その後、禿花は東方に留まってムカリを補佐するよう命じられ、逆に阿海は1219年よりモンゴル帝国の西征に従い、ブハラ・サマルカンド攻略に功績があった。サマルカンド落城後に留守を任され、ホラズムの占領地を委任されて軍民の慰撫にあたり、任地で病を得て没した。享年73。元朝が成立した後の1273年に忠武公に追封された[11]。『長春真人西遊記』には、1222年に丘長春(丘処機)がチンギス・カンに会見した際に阿海が通訳を務めたことが記される。
桓州耶律家
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撒八児 (Sābāér) |
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脱迭児 (Tuōdiéér) |
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禿花 (Toγan) |
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阿海 (Aqai) |
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買住 (Baiǰu) |
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朱哥 (J̌üge) |
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捏児哥 (Nerge) |
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綿思哥 (Mensge) |
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忙古台 (Manγutai) |
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明安歹児 (Mingγandar) |
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忽林帯 (Qurmtai) |
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国楨 (Guózhēn) |
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禿満答児 (Tümender) |
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百家奴 (Bǎijiānú) |
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宝童 (Bǎotóng) |
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買哥 (Maige) |
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忙古帯 (Manγutai) |
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驢馬 (Lǘmǎ) |
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火你赤 (Qoniči) |
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脚注
- ^ 『金史』移剌子敬伝には金の世宗の治世に「都監の撒八は燕子城において猛安謀克事を治めた」との記述があるが、これだけではどの官署に属していたか分からない。しかし、「燕子城」は金代に柔遠県の治所が置かれていた城で、柔遠県は桓州支郡である撫州に属していた。また『金史』の兵志や百官志によると、桓州には西北路招討司が置かれており、招討司には「左・右の都監」という職があった。よって、撒八はまず西北路招討司の都監として桓州の燕子城に赴任し、やがて桓州の長官(尹)に昇格したものと推定される(周2001, pp.502-503)。
- ^ 周 2001, pp. 502–503.
- ^ 『金史』巻89列伝27移剌子敬伝,「移剌子敬、字同文。……世宗将如涼陘、子敬与右補闕粘割斡特剌・左拾遺楊伯仁奏曰『車駕至曷里滸、西北招討司囿於行宮之内地矣。乞遷之于界上、以遮罩環衛』。上曰『善』。詔尚書省曰『招討斜里虎可徙界上、治蕃部事。都監撒八仍于燕子城治猛安謀克事』」
- ^ a b c 周 2001, p. 504.
- ^ 『元史』巻150列伝37耶律阿海伝,「耶律阿海、遼之故族也。金桓州尹撒八児之孫、尚書奏事官脱迭児之子也。阿海天資雄毅、勇略過人、尤善騎射、通諸国語」
- ^ 『元史』巻150列伝37耶律阿海伝,「金季、選使王可汗、見太祖姿貌異常、因進言『金国不治戎備、俗日侈肆、亡可立待』。帝喜曰『汝肯臣我、以何為信』。阿海対曰『願以子弟為質』。明年、復出使、与弟禿花倶往、慰労加厚、遂以禿花為質、直宿衛。阿海得参預機謀、出入戦陣、常在左右」
- ^ なお、『元史』太祖本紀では1211年(辛未)に初めて耶律阿海が降ったと記し、1202年のバルジュナ湖の誓い以前からチンギス・カンに仕えていたとする『元史』耶律阿海伝と食い違う。ただし、元初に成立した「中堂事記」にはクビライ・カアン自らが「耶律禿花はバルジュナ湖の水をすすったことで重用されるようになった」と述べたとの記録があり、やはりバルジュナ湖の誓い以前から仕えていたとする列伝の記述が正しいのではないかと考えられている(周2001, pp.505-506)。
- ^ 『元史』巻150列伝37耶律阿海伝,「歳壬戌、王可汗叛盟、謀襲太祖。太祖与宗親大臣同休戚者、飲辨屯河水為盟、阿海兄弟皆預焉。既敗王可汗、金人訝其使久不還、拘家属于瀛。阿海殊不介意、攻戦愈厲、帝聞之、妻以貴臣之女、給戸、俾食其賦。癸亥冬、進攻西夏諸国、累有功」
- ^ 『元史』巻150列伝37耶律阿海伝,「丙寅、帝建龍旂、即大位、勅左帥闍別略地漢南、阿海為先鋒。辛未、破烏沙堡、鏖戦宣平、大捷澮河、遂出居庸、耀兵燕北。癸酉、抜宣徳・徳興、乗勝次北口、闍別攻下紫荊関。阿海奏曰『好生乃聖人之大徳也。興創之始、願止殺掠、以応天心』。帝嘉納焉。遂分兵略燕南・山東諸郡、還駐燕之近郊。金主懼、請和、諭其使曰『阿海妻子、何故拘繋弗遣』。即送来帰。師還、出塞」
- ^ 『元史』巻110三公表の記述に拠る。もっとも、このころモンゴル帝国の国家体制はまだ発展途上の段階であり、他の時代の「三公」とは同列に見なせない点には注意が必要である。また、『元史』巻110三公表が阿海・禿花・明安が三公の地位にあったのを太宗皇帝=オゴデイ・カアンの時代のこととするのは、明らかに『元史』編纂者の誤謬である(周2001,506-507頁)。
- ^ 『元史』巻150列伝37耶律阿海伝,「甲戌、金人走汴、阿海以功拝太師、行中書省事。封禿花為太傅・濮国公、毎宴享、必賜坐。命禿花従木華黎取中原。阿海従帝攻西域、俘其酋長只闌禿、下蒲華・尋斯干等城、留監尋斯干、専任撫綏之責。未幾、以疾薨于位、年七十三。至元十年、追封忠武公」
参考文献
- 『元史』列伝第37 耶律阿海
- 周清樹「元桓州耶律家族史事彙證与契丹人的南遷」『蒙元的歴史与文化』台湾学生書局、2001年
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