遠征の終結とは? わかりやすく解説

遠征の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 04:57 UTC 版)

イギリスのチベット遠征」の記事における「遠征の終結」の解説

イギリス遠征隊は儀礼的に品を贈られた後、1904年9月帰路についた。この遠征は、当初求めていた協定の締結成功したという意味では勝利と言えるが、結局それらは実のあるものではなかった。敗北したチベットは、宗主国ありながら外敵侵入防げなかった清への不信抱きつつ、イギリスに対してはほとんど意味のない条約結んでなだめることに成功した戦役中に捕虜となったチベット兵は、多く治療受けたうえで、戦後全員無条件釈放された。 ロンドンでは、この戦争対す激し非難巻き起こっていた。エドワード朝期に植民地戦争イギリス本国でも不評となりつつあり、[要出典]カーゾン述べたような取るに足らない開戦事由侵略するというのもよく受け取られていなかった。また「非武装の者たちを虐殺した」ことも議論の的になった一方でエドワード7世は、ヤングハズバンドマクドナルドグラントらが優れた功績挙げた認めたイギリス軍遠く標高の高い地で、凍るような気候勇敢な敵を相手しながらすべての目的を6か月成し遂げたその間戦闘による死者202人、その他の原因による死者411人だった。対すチベット側は、2000人から3000人が死ぬか重傷負った推定されている。 遠征中はカーゾン後ろ盾のもとで活躍し戦後カシミール赴任したヤングハズバンドであったが、彼の意見顧みられず、カシミール政治関与することもできなかった。もはやカーゾン保護失われており、彼がこれ以上インド出世する望み持てなかった。ヤングハズバンド求めていた北西辺境州長官の職は、1908年にジョージ・ロース=ケッペル与えられた。彼は辺境地域住民交流重ねて信頼得ていた人物であった住民を「法を持たない劣等種」と呼び蔑んでいたヤングハズバンドとは対照的な人物だった。

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遠征の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:08 UTC 版)

モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「遠征の終結」の解説

バラとドルベイがジャラールッディーン追跡向かった後、1222年春にモンゴル軍本隊インダス川右岸を遡った。チンギスカーブル北方位置するパルワーンに留まって周辺略奪しバラとドルベイの帰還待った別行動とっていバラ、ドルベイ、オゴデイ本隊合流するが、モンゴル軍内で伝染病流行する1222年夏にチンギス全軍退却命じチンギス帰国伴って莫大な戦利品数万捕虜東方持ち帰られたと伝えられている。 モンゴル軍ヒマラヤ山脈向かって進んだ悪路気候阻まれアフガニスタン戻ったチンギス帰還途上立ち寄ったブハライスラム教教義について説明を受け、メッカ巡礼除いた教義賛同したサマルカンドではフトバ(説教)に自身の名を刻ませ、法官イマームイスラーム宗教指導者)に免税認める。1223年春にチンギスシル川到達し、冬の間ブハラ狩猟楽しんでいたチャガタイオゴデイチンギスの元を訪れた同年夏にチンギスタシュケント近郊のクラーン・バーシー地区滞在しシル川北方に留まっていジョチチンギス元に姿を現さなかった。1224年の夏と冬の間モンゴル軍イルティシュ川流域通過しチンギストゥルイの子であるクビライフレグ対面した1225年2月チンギスモンゴル高原帰還した戦後ホラズム地方南部チャガタイに、残り部分ジョチ分配されるモンゴル征服から数年後破壊されウルゲンチの南に新たな町(新ウルゲンチ)が再建された。 モンゴル帝国の支配下に入ったマー・ワラー・アンナフルでは契丹人耶律阿海と各都市知事務めムスリム官僚による復興事業進められていた。生き残った都市民の統治にあたってダルガチ任命されウイグル人、あるいはペルシア人がその職に就いた廃墟化したサマルカンド南西新しサマルカンドの町が建設されたが、モンゴル征服から約150年後のティムール朝時代入り、ようやく新しサマルカンド城壁完成する住民の数が4分の1減少したサマルカンドではイスラム教徒中国人契丹人などとの共同によってのみ農地の経営認められていたが、モスクでの礼拝ラマダーンの夜の祝祭通常通り行われバザール賑わい見せていた。アフガニスタン駐屯するチンギスの元を訪れるために1221年から1222年にかけてセミレチエマー・ワラー・アンナフル通過した丘長春は、修復整備され街道利用したサイラム到着した丘長春知事から歓迎を受け、ラマダーン断食明け祭り目撃している。

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