遠征・外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 22:57 UTC 版)
ムルシリの治世は彼自身が残した年代記が発見されたためかなり詳しく復元されている。彼が帝王教育を受けず経験不足と侮られたことと、疫病による政治混乱により、即位直後のヒッタイト各地での反乱に繋がった。北方のカシュカ(英語版)族、東方のアッジ(ハヤサ)、西方のアルザワ(英語版)国、南東のアッシリアなどである。ムルシリは四方に懲罰の遠征を繰り返し、在位7年目までにほぼカシュカ族を鎮圧し、アルザワを概ね影響下に収めた。ムルシリは治世の最初の数年で各地の占領地から住民10万人以上を強制的にヒッタイト本国に移住させたが、これは本国が疫病による人口減少に悩んでいたためと思われる。治世4年目には西方のウィルサ王アラクシャンドゥと従属協定を結んでいるが、ウィルサはイリオス、アラクシャンドゥはアレクサンドロスの転訛と思われ、すなわちホメロスの叙事詩「イリアス」に登場するトロイアの王子パリスのことではないかという説がある。 またシュッピルリウマ1世の時代にアムル王国に確保していた影響力を維持するべく、アムル王トゥピ・テシュプにヒッタイトの宗主権を確認させ、エジプトの影響力を排除することに努めた。エジプトでは当時アメンホテプ4世の死後王位を継いだスメンクカーラーとツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の時代で政治的混乱が続いており、ムルシリ2世はシリアへの影響力維持に成功する。ユーフラテス河中流の要衝エマル市をカルケミシュ副王の支配下に置いてシリア支配の拠点とした。在位12年目にはエジプト王ホルエムヘブと条約を結んでアムル支配を認めさせている。 治世9年もしくは10年目に日食(en:Mursili's eclipse)が発生したことが記録されており、天文学上の計算をムルシリと同時代のエジプトやメソポタミアの王の記録と付き合わせると、紀元前1335年か1312年がこの年に相当するとされ、彼が紀元前1320年頃に即位したであろうという推測が成り立つ。治世13年目以降の記録はほとんどないが、少なくとも22年は在位している。おそらくムルシリは25年ほど在位して紀元前1295年頃に死去し、息子のムワタリが王位を継いだ。
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