遠征の後
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サザンクロスは1900年6月にイングランドに戻って来たが、その出迎えは冷ややかだった。地理学会では、ボルクグレヴィンクがニューネスの後ろ盾を得たことに対する不満がまだ残っていたが、大衆の関心はいずれにしても、翌年の出港に向けて準備が進むディスカバリー遠征に集まっていた。一方、ボルクグレヴィンクは「南極地域は新たなクロンダイクになる可能性がある。漁業、アザラシ漁、鉱物採掘の見込みにおいて」と言って、その航海を大きな成功だったと報告した。南極で人間が越冬できることを示し、一連の地理的な発見もあった。その中にはロバートソン湾とロス海の新しい諸島、フランクリン島、クールマン島、ロス島、グレート・アイス・バリアの最初の上陸点があった。ヴィクトリアランド海岸の測量では「重要な地理的発見、サザンクロス・フィヨルドやメルボルン山麓の優れたキャンプサイト」があることが分かった。この探検の最も価値ある業績はグレート・アイス・バリアの計測を行ったことであり、「これまで人類が達した最南端」まで進んだことであると主張していた。 ボルクグレヴィンクによるこの遠征の報告書『南極大陸の最初』は、翌年出版された。その英語版の多くはニューネスのスタッフが脚色した可能性があり、「ジャーナリスト」的であることと、自慢話的な調子を批判された。解説者が認めた著者は、「そのつつましさあるいはその機転もわからない」ものであり、イングランドとスコットランドで講演旅行を行ったが、その受け取られ方は概して低調だった。 ヒュー・ロバート・ミルは、この遠征の科学的成果は期待したほど大きなものではなく、ハンソンのノートの多くが不思議にも消失し、「科学的業績の威勢の良い作品として興味ある」と述べていた。ヴィクトリアランドの気象と磁気の状態が一年間にわたって記録された。南磁極の位置には到達しなかったが計算された。南極大陸の動物相や植物相のサンプルと、地質的なサンプルが集められた。ボルクグレヴィンクは新しい昆虫と浅い水域の動物種の発見も主張しており、「二極性」(北極と南極双方の近くに住む種の存在)を証明した。 イギリスや海外での地理学会はこの遠征に対する公式の認知を緩りと与えていった。王立地理学会はボルクグレヴィンクに特別研究員資格を与え、その後はアメリカ地理学協会から表彰され、その母国スウェーデン=ノルウェー王のオスカル2世からはナイト・オブ・セントオラーフに叙された。1929年、独立後のノルウェー議会がボルクグレヴィンクに3,000ノルウェー・クローネの年金を送ることを決めた。さらにデンマーク、アメリカ合衆国からの勲章や表彰が続いたが、遠征隊の業績が広く認められることは無かった。マーカムはボルクグレヴィンクに対する攻撃を続け、狡猾で無節操だと言った。アムンセンの暖かい賛辞が唯一の肯定的な発言だった。スコットの伝記作者デイビッド・クレインは、ボルクグレヴィンクがイギリス海軍の士官であったら、その遠征はイギリスで異なる待遇を受けたことであろうが、「ノルウェーの水夫で校長というのは、真面目に捉えられることはない運命だった」と推量した。マーカムの死からかなり経った1930年、王立地理学会がボルクグレヴィンクにパトロンのメダルを贈った。「サザンクロス遠征のパイオニア的行動の当時には、正義は行われなかった。それが打ち勝った困難さの程度は、当時過小評価されたままだった」ことを認めた。ボルクグレヴィンクはこの遠征後、比較的静かに暮らしており、公衆の目に触れることはほとんど無かった。1934年4月21日にオスロで死んだ。
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遠征の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:43 UTC 版)
ディスカバリー遠征とテラノバ遠征の小屋は今も残っており、南極歴史遺産信託とニュージーランド政府によって保護されている。エバンス岬の小屋の中で、リチャーズの寝床に近い壁には、遠征中に失われた者の名前が刻まれ、今も読み取ることが出来るが、小屋全体が朽ちていく危険性があり、関心を呼んでいる。 オーロラはロス海から最後に戻って、その後1年も生き残れなかった。シャクルトンが1万ポンドで売却し、その新しい任務はオーストラリアと南アメリカの間で石炭を運搬することだった。1918年1月2日あるいはその頃、オーロラは太平洋で消えた。嵐で座礁したか、敵国襲撃者によって沈められたかと考えられている。乗組員の中にロス海支隊に参加していたジェイムズ・ペイトンがおり、この時も甲板長を務めていた。アーネスト・ワイルドも第一次世界大戦の犠牲者になった。地中海でイギリス海軍に仕えていた1918年3月10日、マルタでチフスのために死んだ。 1923年7月4日、ジョイスとリチャーズはイギリス国王ジョージ5世から、2シーズン目の補給所設置の旅で、勇敢で人命を救った行為についてアルバート・メダルを贈られた。ワイルドとビクター・ヘイワードも同章を死後受章した。生存者の多くはその後長く成功した経歴を送った。若い無線技士ライオネル・フックはアマルガメイテッド・ワイアレス・オーストラリアに入社し、多くの技術的な発明を行った。1945年には同社の社長になり、1962年には会長になった。1957年には産業への貢献によってナイトに叙された。生き残った犬4頭のうち、コンは救援されるまえに他の犬との争いで殺された。他の犬、オスカー、ガナー、タウザーは船でニュージーランドに戻り、ウェリントン動物園に収容され、オスカーの場合は25歳まで生きたとされている。ディック・リチャーズはその晩年にこの遠征隊の最後の生き残りとなり、参加したことを後悔せず、無駄に終わった戦いも、無駄ではなかったと見ていた。むしろそれは人間の精神がなした何かであり、何もやらなければ何も残らないと考えていた。
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遠征の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 05:36 UTC 版)
ラ・ペルーズは大西洋への帰還を始め、セバーンをレゾルーション岬まで曳航していった。セバーンはそこで解放されイングランドへの帰還を許された。ラ・ペルーズはセプターとアンガジュアンを率いてカディス(スペイン)に向かい、アストレーは遠征の成功をパリに報告するためにブレストに向かった。この遠征は乗組員には大変な苦難を強いていた。艦船がヨーロッパに戻った時までに、セプターでは60名のみが働ける状態であり(出発したときは陸兵を含めておよそ500名が乗り込んでいた)、約70名は壊血病で死亡していた。アンガジュアンでは、壊血病で15名が死亡し、ほとんど全員が何らかの病気に罹っていた。両艦とも寒い気候と浮氷塊に当たって損傷を受けていた。フルリオー・ド・ラングルは10月遅くにブレストに着いたときに、「カピタン・ド・ベッソー」(海軍大佐)への名誉昇進を受けた。 ハドソン湾会社に拠れば、プリンス・オブ・ウェールズ砦で奪われた商品の価値だけで14,000ポンド以上であり、ラ・ペルーズの襲撃は会社の財政に大きな打撃を与えたので、1786年まで配当金を払えなくなった。1783年パリ条約で和平がなったとき、フランスはハドソン湾会社にその損失を補償することに合意した。この襲撃はハドソン湾会社の交易関係に恒久的な打撃を残さなかった。ハドソン湾会社と交易していたチペワイアン族インディアンは会社が物資を補給できなくなったために大きな影響を受け、その後の天然痘の流行によって北アメリカのインディアン人口は大きく減少した。ある推計ではチペワイアン族の人口は半減したとされている。ハドソン湾会社が2シーズンにわたってインディアンと交易できなかったことにより、生存者の多くはモントリオールとの交易関係を広げることになった。 ハーンとマーテンは降伏したことで会社から制裁を受けることはなかった。両名とも翌年には元の職に復帰した。フランス軍がプリンス・オブ・ウェールズ砦を占領したときに、サミュエル・ハーンの日誌を発見し、これをラ・ペルーズが戦利品として押収した。この日誌にはハーンが北アメリカの北限を探検したときの証言が書かれていた。ハーンはラ・ペルーズにその日誌の返還を誓願し、ラ・ペルーズはそれが出版されるという条件で応じた。ハーンがそれを出版する意図があったかどうかは不明だが、ハーンが死んだ1792年までに、原稿を準備し、出版社に送っていた。その日誌は1795年に『ハドソン湾のプリンス・オブ・ウェールズ砦から北洋への旅』として出版された。 ラ・ペルーズはルイ16世から800リーブルの昇級で報償された。その功績はヨーロッパと北アメリカの大衆からも賞賛を受けた。次の大きな任務は1785年の太平洋に向けた探検だった。フルリオー・ド・ラングルが再度副指令として参加したその艦隊は1788年春にオーストラリアの近海で目撃されたのが最後だった。この遠征の残骸が発見されてきたが、ラ・ペルーズの運命は不明なままである。
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遠征の後
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サリバンは当時病気を患っていたので遠征も遅れていたが、健康状態が悪化を続けたので1780年にその任務を辞した。歴史家達は、イロコイ族がワシントンにつけた渾名「町の破壊者(Town estroyer)」がこの遠征から出てきたものであるかについては意見の一致を見ていない。 この時の集落破壊によってその冬に5,000人をこえるイロコイ族インディアン難民は苦難を強いられることになり、多くは飢えるか凍えて死んだ。しかし、ジョン・バトラーが「この地域のインディアンは食糧に大変不足していたので、」遠征前の1778年5月でも「森の中の草の根を集めて生活していくしかなかった」と書いているように、この苦難の原因は大陸軍による遠征が全てではない。多くのタスカローラ族やオナイダ族は攻撃を恐れて、イギリス側に逃亡した。 1780年2月、元将軍で当時大陸会議代議員のスカイラーは大陸軍側のインディアンの一隊をナイアガラ砦に派遣し、イギリスに同盟するイロコイ族に和平を提案させた。ここのイロコイ族はスカイラーが罠に掛けようとしていると疑いこの提案を拒絶した。4人の使者は投獄され、そのうちの1人はそこで死んだ。 サリバン遠征はイロコイ族の畑や集落を破壊し、1779年から1780年の冬はインディアンにイギリス軍の慈悲に縋るように仕向けたが、第2ニューハンプシャー連隊のジェレマイア・フォッグ少佐はその日記に、「(インディアンの)巣は破壊されたが、鳥はまだ羽を持っている」と記していた。ワシントンは決戦が行われず、ナイアガラ砦を奪えなかったことに失望した。イロコイ族戦士と英国王党派は1780年と1781年もモホーク川とスコハリー川の流域で定期的に襲撃を続け、広範囲におよぶ資産や畑を破壊し、200人以上の入植者を殺した。1780年に起こったミンデンの町の破壊はこの4年間の内戦の中で最も破壊的な襲撃だった。1781年に起こった最後の重要な襲撃ではモホーク川下流32kmの地帯が破壊されたが、10月25日のジョンズタウンの戦いで駆逐された。ウォルター・バトラーは英国王党派が撤退する途中のウェストカナダ・クリークで10月30日に起こった戦闘で殺された。 それでもイロコイ族の故郷と生活基盤はこの遠征で破壊された。長い目で見ると、この遠征がイロコイ連邦の生活基盤を破壊したことは明らかである。この遠征は飢饉や離散以上のものではないことが分かった。戦争の後、イロコイ族の領土の多くは1784年のスタンウィックス砦条約で和平が確保されることになり、その後ニューヨーク州との不平等条約でまとめられることになった。インディアンの多くはカナダ、オクラホマ州およびウィスコンシン州に移動した。1783年のパリ条約の後、ヨーロッパ系白人が新しく空白地帯になった地域に比較的安全に入植を始め、最終的には士気阻喪したまま残っている少数団のイロコイ族はニューヨーク州との不平等条約で細かく切り取られた村や町の中に孤立することになった。
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