マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエとは? わかりやすく解説

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マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 05:51 UTC 版)

マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
Maria Luisa di Borbone-Due Sicilie

出生 (1855-01-21) 1855年1月21日
両シチリア王国ナポリ
死去 (1874-02-23) 1874年2月23日(19歳没)
フランス共和国ポー
配偶者 バルディ伯エンリコ
父親 両シチリアフェルディナンド2世
母親 マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン
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マリーア・ルイーザ・インマコラータ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエイタリア語: Maria Luisa Immacolata di Borbone-Due Sicilie, 1855年1月21日 - 1874年2月23日)は、両シチリア王国の王族。両シチリア王フェルディナンド2世とその2度目の妃であるオーストリア大公女マリア・テレジアの間の四女。

生涯

千人隊によるシチリア遠征の後、教皇ピウス9世の招きにより、家族とともにローマクイリナーレ宮殿で亡命生活を送った。

1873年11月25日にフランスカンヌにおいて、ブルボン=パルマ家の公子であるバルディ伯エンリコと結婚した。姉のマリーア・ピアが1869年にエンリコの兄のパルマ公ロベルト1世と結婚しており、この結婚は二重の縁組であった。

しかし、マリーア・ルイーザは結婚してわずか3カ月後に19歳で急死した。寡夫となったエンリコは後にポルトガルの廃王ミゲル1世の娘アルデグンデスと再婚した。




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