歴史遺産とは? わかりやすく解説

文化遺産

(歴史遺産 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 04:19 UTC 版)

文化遺産(ぶんかいさん、英語: cultural heritage)は、人類文化的活動によって生み出された有形・無形の所産である。文化財(ぶんかざい、英語: cultural property)ともいう。

文化的所産の中でも特に、価値が高く、後世に残すべきと考えられているものを指していうことも多い[1]

概要

文化遺産は、広義では人類の文化的活動によって生み出された建造物遺跡美術品音楽演劇などの有形(不動産・可動文化財)・無形の文化的所産のことをいう。各国政府および国際機関は、文化的所産の中でも学術上、歴史上、芸術上等の価値が高く、後世に残すために保存等の措置が取られるべきものを、特に「文化遺産」あるいは「文化財」と位置づけ、条約法律条例等による文化遺産保護制度の対象としている。保護の対象となる文化遺産は、それぞれの制度の制定目的に応じてそれぞれであるが、制度によっては純粋な文化的所産のみならず、天然記念物のような自然の産物が含まれることもある。保護の対象となる文化遺産に対しては指定・登録等の手続きが取られるが、未指定・未登録の文化遺産の中にも貴重なものは多数存在する。

歴史的には必ずしも尊重されておらず、破壊・略奪の対象となり散逸することが多い。また宗教的信念による破壊も歴史的には多く行われる。 たとえばミロのヴィーナスであっても、キリスト教イスラム教を強く信じる中世の人が発掘したのなら異教の呪われたもので破壊の対象、またそれらを売れば金になるという希望(貨幣経済・交易・文化的な富裕層)がない時代の教養のない民ならば焼いてセメントにするだけである。自己と無関係の文化圏の文化財も含めて尊重するのは近代文明特有の時代精神である。

近年、自然災害によっても失われる文化遺産が多い。補修すれば将来に受け継ぐことができる文化遺産であっても、未指定の物は特に、災害後に撤去されて失われてしまうことがある[2]。自然災害の多発に加え、急激な都市化により文化遺産が市街地の中に埋もれてしまったことに要因がある[3]。2011年東北地方太平洋沖地震においても、被災地に数多くの文化遺産があった[4]。災害からの復興にあたり、文化遺産がはたす精神的な役割は大きい。

世界遺産における文化遺産

国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、世界遺産条約に基づく世界遺産の制度を運営している。世界遺産への登録の種類としては「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」「危機にさらされている世界遺産」(危機遺産)があり、優れた価値をもつ建築物や遺跡が「文化遺産」に該当する。文化遺産は、登録を求める地域の政府機関が登録候補地を推薦し、国際記念物遺跡会議が現地調査を行い、世界遺産委員会での審査を経て世界遺産リストに登録される。ユネスコの事業として世界遺産の他に、無形文化財を指定して保護するための無形文化遺産もある。

日本の制度上の文化遺産

日本の文化財保護法では、有形文化財無形文化財民俗文化財記念物文化的景観、伝統的建造物群の6種類を「文化財」と定義しているが、これらの概念ではとらえられないものの中にも歴史的な価値を有する文化的所産が存在する。文化審議会では、歴史的な価値を有する文化的所産を、文化財を含む広い意味での「文化遺産」と位置づけている。広い意味での文化遺産の例としては、文化的景観、文化財の周辺環境、近代の科学・産業遺産、「文化財の類型の枠を超えて一定の関連性を持ちながら集まった総体」などがあげられている[5]。これらのうち文化的景観に関しては、2004年(平成16年)の文化財保護法改正により、新たに同法上の「文化財」の一種として位置づけられた。

教育機関

以下の日本の大学は文化遺産に関連する教育研究を行っている。

文化財指定・登録されていない文化遺産

数多の遺跡が貧しい地域に位置するだけか人目に触れない様になり廃墟化が進みつづあるうち、より一層隠され、見る価値さえ失ってしまいました。

それでも極少ない羣體に一瞬の記憶を引かれるという。

脚注

  1. ^ 江東区における文化財保護の考え方としくみ”. 江東区.[リンク切れ]
  2. ^ 歴史資料ネットワーク
  3. ^ NPO災害から文化財を守る会
  4. ^ 立命館大学歴史都市防災研究センター
  5. ^ 文化審議会文化財分科会企画調査会『文化財の保存・活用の新たな展開 ―文化遺産を未来へ生かすためにー』、2001年

関連項目

外部リンク


歴史遺産

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:33 UTC 版)

インスブルック」の記事における「歴史遺産」の解説

旧市街黄金の小屋根(de:Goldenes Dachl)と呼ばれるバルコニーがあり、マクシミリアン1世チロル公国継承後、6年目1496年にこの建物完成させ、バルコニーから祭り見物した。この屋根には2,657の金の瓦が使用され当時チロルの富と繁栄象徴となったインスブルック王宮教会にはマクシミリアン1世があり、生涯たどった大理石レリーフ掘り込まれている。アーサー王皇帝ルドルフ1世皇帝フリードリヒ3世ブルゴーニュ女公マリージグムント大公皇妃ビアンカフィリップ美公カスティーリャ女王ファナ28体の彫像マクシミリアン1世参列するという設定周り並べられの上には神に祈るマクシミリアン1世の像が載っている。

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歴史遺産

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オワ=プラージュ」の記事における「歴史遺産」の解説

ブロックハウス - 第二次世界大戦中ドイツ軍によって教会尖塔の形で建設された。目的は、視覚的な手掛かりドイツ標的爆撃しようとするイギリス空軍パイロット欺くためであった。この偽の尖塔は、コミューンの数キロ南にある別の町の尖塔混同される可能性がある。終戦後、この偽の尖塔爆発物破壊する試みなされてきたが、それは十分ではなかった。現在、ブロックハウスは約20度傾いており、斜塔の名で呼ばれている。 サン・メダール教会 - カレー領有していたイングランド王国により16世紀建設されカンタベリー大司教座の支配下にあった現在の建物1863年から1880年の間に建設された。尖塔部分1914年建てられたが、塔の残りメアリー1世時代1553年建てられ、町最古建築物となっており、カレージ地方に残る唯一のイングランド時代の塔である。その後教会全体建設されたのか、それとも塔と尖塔部分既存教会追加されただけなのかは不明である。 墓地 - コミューン共同墓地には、ベルギー人およびフランス人戦没者墓地と、コモンウェルス戦争墓地委員会(CWGC)が管理する戦没者墓地がある。 プラティエ・ドワ国立自然保護区 サン・メダール教会 戦没者追悼碑 仏伯戦没者墓地 CWGC戦没者墓地

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歴史遺産

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グアダラマ山脈」の記事における「歴史遺産」の解説

壮大な風景快適な夏の気候、特にマドリードセゴビアに近い距離は、グアダラマ山脈斜面での数多く傑出した建築物記念物建設に結びついた。 エル・エスコリアル修道院 - 巨大な宮殿聖アウグスチノ修道会修道院美術館図書館から構成される複合体厳粛な古典主義建築家フアン・バウティスタ・デ・トレドがとフアン・エレーラが設計し1563年から1584年にかけ建設された。UNESCO世界遺産登録されている。 戦没者の谷Valle de los Caídos) - アバントス山北面にあり、厚いマツ囲まれ国立墓地スペイン内戦時の戦没者追悼するためにフランシスコ・フランコの命でつくられた。敷地内にある、フランコ自身埋葬されているバシリカ同様に、約4万人戦没者埋葬されている。花崗岩でできた高さ150m十字架は、50kmほど離れた場所からも肉眼確認できる。 サンタ・マリア・デ・エル・パウラル修道院 - 山脈壮大な風景周囲囲まれた、1300年代後半からある大きな回廊特徴とした修道院カスティーリャ王エンリケ2世の命で建設され1876年に国の歴史記念物指定された。 マンサナレス城 - ラ・ペドリサの麓にある中世要塞円柱状の塔のいくつか15世紀以来のもの。 ペドラサ城 - 同名自治体ペドラサを守る丘の上に建つ。14世紀建てられ16世紀拡張された。一部失われしまっているが、近代修復され、国の保護下にある。 ラ・グランハ宮殿 - バロック様式18世紀フェリペ5世によって建てられた。宮殿広大な庭園には、芸術的な価値の高い多数彫刻神話人物)が設置されている。

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歴史遺産

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/30 12:16 UTC 版)

ツォフィンゲン」の記事における「歴史遺産」の解説

10箇所建造物遺跡が国の重要遺産指定されている。そのうち最も古いのは、ヒルツェベルクにあるモザイク床が特徴ローマ時代農家屋である。その他の指定物件以下の通り件名所在地武器庫 ゲネラル=グイサン通り12番地 旧検疫所 アールブルゲル通り21番公立校舎 ゲネラル=グイサン通り14番博物館 ゲネラル=グイサン通り18番都市図書館 ヒンテーレ中央通り20番地 ハイテルン広場 クレステルリ通り2番市庁舎 ラトス通り4番酪農場 ヒンテーレ中央通り9番地 酪農場 ヒンテーレ中央通り14番また、ツォフィンゲンの街自体も国の遺産指定されている。 1890年公立校1715年ツォフィンゲン城壁覆われ市街コンパクトまとまっている

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歴史遺産

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中山道」の記事における「歴史遺産」の解説

明治以後急速な経済発展関東大震災による被災第二次大戦時空襲などによって、沿道急速に変貌した東海道沿線異なり中山道沿線では、江戸時代以前街道宿場町比較良く保存されて来た。高度経済成長期以後、これらを積極的に保存しようという運動高まった。特に、重要伝統的建造物群保存地区として選定され長野県妻籠宿1976年選定)と奈良井宿1978年選定)が有名である。他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備している。また、奈良井宿藪原宿の間にあり、日本海信濃川水系)と太平洋木曽川水系)の中央分水嶺でもある鳥居峠や、妻籠宿馬籠宿の間にある馬籠峠では、自然遊歩道としての整備進められている。 中山道は、約30大名参勤交代利用したと言われている。その中で最大領地を持つ加賀藩は、江戸藩邸の上屋敷中山道沿いの本郷に、下屋敷板橋宿置いたそのうち江戸上屋敷敷地明治以後は、東京帝国大学となった現在の東京大学本郷キャンパスは、国道17号面している(ただし、国道17号の同キャンパス付近通称は「本郷通り」と呼ばれ後述のように「中山道」とは呼ばれていない)。また、かつての中山道面して建つ加賀藩上屋敷御守殿門赤門)は、重要文化財指定され保存されている。 中山道は、様々な文学作品の舞台ともなった馬籠宿出身島崎藤村は、自らの故郷舞台歴史小説夜明け前』を執筆した。現在は馬籠生家跡に「藤村記念館」がある。

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歴史遺産

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新田 (名張市)」の記事における「歴史遺産」の解説

美波多神社美旗地区神社合祀されている。 常夜燈当時街道を通る人達の道しるべとなっていた。初瀬街道沿いの美波多神社入り口付近にある(寛永元年の物)。東の端にも常夜燈がある(慶応2年建立石積みの上に建つ)。 新田用水路:旧青山町伊賀市青山地区)の高尾からを引く水路。その長さは3里18町(約15km)にも及ぶ。美旗小学校美旗古墳群辺りは「美濃が原」と呼ばれ、この地の開墾進めるため藤堂高次の命により加納直盛らは東ノ狭間池大池上小波田滝之原)を完成させるが、 決壊水量不足により新たに加納直盛の子、直堅が事業受け継ぎ20年歳月をかけ完成させた。 井筒屋新田宿にあった旅籠。旧美旗郵便局の隣の長屋門のある家。大阪商人記したと言われる「伊洲尾洲道中記」には伊勢街道随一旅籠記される宿泊客に絹の寝具もてなしお菓子当時は珍しいこんぺいとう出していたとも記される真性寺馬頭観音お祭りするお寺旧暦新年初めての午の日に初午祭が行われる。 日時計石:新田用水路から各農家水田入れ時間決めていた日時計

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