モンゴル帝国時代の「モンゴル文字」とは? わかりやすく解説

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モンゴル帝国時代の「モンゴル文字」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 07:54 UTC 版)

モンゴル文字」の記事における「モンゴル帝国時代の「モンゴル文字」」の解説

モンゴル部オノン川発祥した時には元来文字を持たなかった。1204年チンギス・ハーンナイマン王国攻略したとき、捕虜となったナイマン宰相ウイグル人であったタタ・トゥンガ(塔塔統阿)という人物チンギス下問答えて国璽文字効用説いたことにより、モンゴルでも国事遂行印璽使用するようになり、モンゴル人の子弟にウイグル文字習わせた、とされている。1222年チンギス・カン宮廷訪れた丘処機長生術についてチンギス講じた内容を、ウイグル人書記ウイグル文字記録していたという記事が『長春真人西遊記』にある。チンギスオゴデイグユク時代活躍したウイグル人書記官チンカイナイマンケレイト攻略以前チンギス幕下活動しており、ナイマン攻略前後からモンゴルウイグル文字接触し、その存在意識していた可能性は高い。1246年即位したグユクローマ教皇インノケンティウス4世宛てたペルシア語による勅書バチカン現存するが、この書簡書面ウイグル文字モンゴル語による銘文をもつ印璽が2か所捺されており、これが絶対年代判明している最古モンゴル語モンゴル文字資料となっている。(1226年頃にチンギス・カンの甥イェスンゲ射た遠矢記録記念したいわゆるイェスンゲ紀功碑」が最古モンゴル文字とされているが、記念碑の建立年代には異論もある) モンゴル帝国および大元ウルスモンゴル語筆写使用されていた、いわゆるモンゴル文字」として知られている文字は、当時漢語では「畏兀児文字」、同時代イルハン朝などで書かれペルシア語資料でも khaṭṭ-i Uyghrī (ウイグル文字)と称されており、飽くまでもウイグル文字であってモンゴル文字」とは呼ばれていなかった。モンゴル語筆写にはウイグル文字そのまま使用されていたため、正書法ウイグル文字そのものであったこのようにモンゴル語筆写するために書かれ当時ウイグル文字を、敢えてウイグル語文書などのウイグル文字区別するために「ウイグルモンゴル文字」と称される場合もある。 なお、大元ウルスで「蒙古字」ないし「蒙古新字」と称されていたのは、チベット文字を基にチベット人僧侶パクパパスパ)がつくったパスパ文字である。 清では満洲文字漢文と共に三体呼ばれ三体公用文字として公文書には必ず用いられた。

※この「モンゴル帝国時代の「モンゴル文字」」の解説は、「モンゴル文字」の解説の一部です。
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