モンゴル帝国拡大の限界点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 04:17 UTC 版)
「アイン・ジャールートの戦い」の記事における「モンゴル帝国拡大の限界点」の解説
この戦いは、マムルーク朝側の歴史家たちが残した同時代のアラビア語史料から現代の歴史研究に至るまで、ムスリム(イスラム教徒)がモンゴル帝国軍と正面から衝突して、初めてこれを破った戦いとして非常に名高い。しかし、ムスリム政権の軍がモンゴル帝国軍に勝利した前例は、すでに1221年にホラズムシャー朝のジャラールッディーンの軍団がシギ・クトク率いる3万騎強を撃ち破ったアフガニスタンのパルワーンの戦いがあり、厳密に言えば「初めて」ではない。 一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシア語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いを受けている。モンゴル側の立場としては、この戦いに参加したモンゴル帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからである。他のモンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、アイン・ジャールートの戦いほどには印象が薄いようである(上記のパルワーンでの敗北についても、モンゴルは後日にチンギス・カン自ら軍勢を率いてジャラールッディーンの軍隊を壊滅させ(インダス河畔の戦い)、雪辱を果たした)。アイン・ジャールートの戦いが印象的である理由は、恐らくその後のモンゴル側の政情が著しく変化し、シリア奪回の機会が失われ、結果的にこの地域がマムルーク朝の統治下に置かれることが確定した戦いであったからであろう。 事実、イルハン朝では1260年以降フレグ、アバカなどはジョチ・ウルスとはアゼルバイジャン地方で、チャガタイ・ウルスとはホラーサーン地方での境域紛争に忙殺され、バイバルスによる度重なるシリア境域地域の侵攻には対策が後手に回り続けている。歴代の君主たちもガザン・ハンなどシリア地域に幾度か遠征軍を派遣しているが、大抵の場合、軍の規模もせいぜい3万前後がほとんどでアレッポ以南の地域への征服はほぼ失敗している。クビライとアリクブケのモンゴル帝国帝位継承戦争の後もモンゴル帝国自体、王家間の紛争が長期化・続発して帝国全体での軍事行動が不可能になったことも、モンゴル側にとってのシリアにおける領土侵略の機会が失われた根本的要因であった。 いずれにせよ、西方におけるモンゴル帝国の際限のない拡大が停止したのがアイン・ジャールートの戦いのあった1260年であるのは確かであり、その意味で象徴的な戦いであった。
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