モンゴル帝国以降のボルジギン氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 16:56 UTC 版)
「ボルジギン氏」の記事における「モンゴル帝国以降のボルジギン氏」の解説
モンゴル帝国のもとでは、チンギス・カンとその3人の同母弟のジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンの子孫は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と称され、一般の遊牧民や遊牧貴族の上に君臨する君主の血筋とみなされるようになった。そしてチンギス・カン兄弟以外のキヤト氏族の人々と「黄金の氏族」を区別するため、彼らは単に「ボルジギン」を氏族名として称した。ここに、かつてはボドンチャルの子孫全体の氏族名であったボルジギンは、モンゴル帝国のカアン(ハーン、皇帝)家に固有の氏族名として使われ始める。 チンギス・カンの築いたモンゴル帝国は、中国からロシア、中東にまで勢力を拡大し、世界史上空前の大帝国に成長した。このためボルジギン氏の子孫たちは帝国の最高君主であるカアン(ハーン)位を継承した元朝を始め、チャガタイ・ウルス、ジョチ・ウルス、フレグ・ウルス(イルハン朝)など大小さまざまな王国を形成し、その王家として栄えた。 これらの諸政権は14世紀には次第に衰退して解体したり再編されたりしたが、その後もモンゴル帝国の旧支配地では、ボルジギン氏であるチンギス・カンの男系子孫しかカアン(ハーン)になれないという慣習が根強く残った。これをチンギス統原理という。 モンゴル高原では、元が明に追われて高原に退いた後、ボルジギン氏の王家は一時的に衰退したが、16世紀初頭にチンギス・カンの末裔のダヤン・ハーンがモンゴル高原を再統一することによって息を吹き返す。その後のモンゴルではダヤン・ハーンの子孫たちが分家を繰り返しつつ各部族を支配する王侯として定着し、17世紀以降の清の支配のもとでも彼らはその地位を保ち、ボルジギト(博爾済吉特)氏(Borjigit hala)は孝荘文皇后などを通じて皇帝と血の繋がりもできた。 20世紀においても、ボルジギン氏はデムチュクドンロブ(徳王)、ダリジャヤ(中国語版)(達王)など、政治的に重要な役割を果たした人物を輩出している。
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