モンゴル帝国建国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:31 UTC 版)
「モンリク・エチゲ」の記事における「モンゴル帝国建国後」の解説
以上の功績や、父祖の代からの忠勤によってモンリク・エチゲは1206年のモンゴル帝国建国に際して功臣(千人隊長)の第一位に列せられ、3人の息子(トルン・チェルビ、スイケトゥ・チェルビ、ダイル)も千人隊長に任ぜられた。しかし、この後モンリク・エチゲの息子たち(特に長男のココチュ)は増長するようになり、チンギス・カンの一族に屡々無礼をはたらくようになった。末弟のテムゲ・オッチギンがココチュらに侮辱されるに至ってチンギス・カンもモンリク・エチゲの一族の増長を見過ごせなくなり、テムゲ・オッチギンがチンギス・カンの下に参上したココチュを殺すのを黙認した。 ココチュが殺された後、チンギス・カンはモンリク・エチゲが息子たちの教育を誤ったことを叱責したものの、「度を超えたる性を引き締めておりさえすれば、父のモンリクの子孫と何人がひとしなみであり得ようぞ」と語り、モンリク・エチゲの高い地位を奪うようなことはしなかった。これ以後モンリク・エチゲは史料に現れなくなるが、没年は不詳である。
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