モンゴル帝国時代の「ジパング」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 09:14 UTC 版)
「ジパング」の記事における「モンゴル帝国時代の「ジパング」」の解説
モンゴル帝国時代、大元朝時代の「日本観」についてであるが、大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、「その地東西南北、各々数千里なり。西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山を以てす。山外は即ち毛人(蝦夷か)の国なり」とした上で、雍熙元年(984年)に入宋した日本人僧の奝然の伝えたところとして、「天御中主」(天御中主尊)から「彦瀲尊」(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)までの約23世、「神武天皇」から「守平天皇」(円融天皇)までの約64世を列記し、「国中に五経の書および仏経、『白居易集』七十巻あり、並びに中国より得たり」「土は五穀によろしくして麦少なし」「糸蚕を産し、多く絹を織る、(その布地は)薄緻愛すべし」「四時(春夏秋冬)の寒暑は、大いに中国に類す」と記し、「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記している。日本の地理などの情報は全体的にほぼ正確に伝えているが、「犀・象多し」など事実と異なった記述も一部ある。 また、『集史』「クビライ・カアン紀」によると、東南方、「環海中、女直と高麗(جورجه و كولى Jūrja wa Kūlī)地方沿岸近くに大島があり、それはジマングー(جمنكو Jimangū?)という名前である。(女直や高麗の地域から)400ファルサング(約 2,000 km)離れている」とあり、女直、高麗などから東南海上の彼方に大元朝に敵対する地域として「日本国」の音写とおぼしき「جمنكو j-m-n-k-w」と呼ばれる大島についての記述がある。
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