モンゴル帝国以前の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:31 UTC 版)
「コンギラト」の記事における「モンゴル帝国以前の時代」の解説
ラシードゥッディーンはコンギラトの族祖伝承として、コンギラトの三人の始祖(ジュルク、クバイ・シレ、トスボダイ)は「黄金の壺」から生まれ、ジュルクからはコンギラト本族が、クバイ・シレからはイキレス氏とオルクヌウト氏が、トスボダイからはカラヌウト氏とコンクリウト氏、コルラス氏、イルジギン氏が生じたと伝えている。この「黄金の壺」とはモンゴルの族祖伝承で日月の光を受けて子を孕んだというアラン・コアと同様、将来王者となるべき者を孕む「聖なる容器」を意味するものであった。また、アラン・コア自身もコンギラト部コルラス氏の出身であって、これ以後コンギラト部はモンゴル部と恒常的に通婚関係を持つようになっていくため、二つの族祖伝承は相関的関係にあるものと見られる。 チンギス・カンの先祖の中でも曾祖父カブル・カンの妻コア・クルグ、父イェスゲイ・バートルの妻ホエルン(オルクヌウト氏)もコンギラト部の出身であった。チンギス・カンはコンギラト氏から分岐したボスクル氏のデイ・セチェンの娘ボルテを娶ったが、婚姻当時のモンゴル部は弱小勢力であったため、デイ・セチェンはこの婚姻に不賛成であったが、ボルテの弟アルチ・ノヤンの尽力によって婚姻が成立したという。チンギス・カンの弟たちもジョチ・カサルの妻アルタン(コルラス氏)やテムゲ・オッチギンの妻スンドクチン(オルクヌウト氏)のようにコンギラトに屬する各氏族から妻を娶っていたが、チンギス・カン以後、その子孫は殆どがアルチ・ノヤンの子孫から妻を娶るようになった。 また、中国の正史には遼朝末期よりその名が知られており、金朝が遼を滅ぼした際にモンゴリアのトーラ川に逃れた耶律大石は現地の諸部族を集めて自立したが、その中に「王紀剌(オンギラト)」の名がある。金朝の章宗時代には、「広吉剌(コンギラト)」が諸部を脅かして塞に入ったため、宗浩が軍を率いて遠征したことが記録されている。
※この「モンゴル帝国以前の時代」の解説は、「コンギラト」の解説の一部です。
「モンゴル帝国以前の時代」を含む「コンギラト」の記事については、「コンギラト」の概要を参照ください。
- モンゴル帝国以前の時代のページへのリンク