カブル・カン
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カブル・カン(Qabul Qan、生没年不詳)は、モンゴル部ボルジギン氏モンゴル国の初代カン。トンビナイ・セチェンの子で、クトラ・カンの父。チンギス・カンの曾祖父にあたる『元朝秘史』ではカブル・カハン(合不勒合罕、Qabul Qahan)、『集史』ではカブル・ハーン(Qabul Khān)、『元史』では葛不律寒と表記される。また、金代に記録される熬羅孛極烈もまたカブル・カンの別名であると見られている[1]。カブル・カンの子孫はモンゴル古伝承にちなんで、キヤン(Qiyan、乞顔)という氏族名を名乗って多くの氏族集団をつくり、結束してキヤト(Qiyad、乞牙惕)(キヤンの複数形)と称した[2]。
- ^ 村上1970,p66
- ^ 村上 1970,65-66
- ^ 村上 1970,p60
- ^ ただし、現代モンゴル語では「カムク」は「ハマグ」に転訛しており、ダライ氏も正確には「ハマグ・モンゴル・ウルス」と表現している(白石 2006,p23-24)
- ^ 佐口 1989,p27
- ^ 志茂 2013,p821-822
- ^ 佐口 1968,P27
- ^ 『大金国志』「皇統七年……是歳、朦骨国平。初、撻懶既誅、其子勝花都郎君者、率其父故部曲以叛、与朦骨通。兀朮之未死也、自将中原所教神臂弓手八万討之、連年不能克。皇統之六年八月、復遣蕭保壽奴与之和、議割西平河以北二十七團塞与之、歳遺牛羊米荳、且册其酋長熬羅孛極烈、為朦輔国主、至是始和、歳遺甚厚。于是熬羅孛極烈自称祖元皇帝、改元天興。大金用兵連年、卒不能討、但遣精兵、分拠要害而還」
- ^ 村上 1970,60
- ^ 「オキン」とは「娘」の意。ラシードゥッディーンによると、彼は丸顔で少女のように美しかったので、そう名付けられたという。また、彼は時のモンゴル国の王者アンバガイ・カンとともにタタル部族に謀られて捕えられ、金国に手渡されて、木馬に釘打ちの刑に処されたという。この系統は後にキヤト・ジュルキン(ユルキン)氏集団を形成した。≪村上 1970,61≫
- ^ チンギス・カン直系の祖父にあたり、その子孫は数多くのキヤト氏集団を形成した。≪村上 1970,61≫
- ^ 「クトクトゥ」とはturcqutすなわち「吉祥を持てる者」の意で、テュルク語のqutluγ≪村上 1970,61≫
- ^ 「クラン」とは現在「黄羊(ホワンヤン)」と呼ばれる有蹄類のモンゴル名。『輟耕録』には、「忽蘭八都児」とあり、かつ「庶子」とみえる。≪村上 1970,62≫
- ^ これと同じ人物が、アンバガイ・カンの十人の子の中にもみえるが、それは別人である。≪村上 1970,62≫
- ^ 「トドエン」とは「ズボンの紐」の意でよく末子に見られる名。また「オッチギン」はテュルク語で「火(ot)」「主(čigin=tegin)」で「炉の主」の意をもち、末子に付けられる名。これは末子が父の死後、母と共にその財産を相続する際に、父の家屋・家財・妻妾を受け継ぐところから、かく名付けられたもの。しかし、家督権や祭祀権などはむしろ長子の相続するところであった。このトドエンなる人物の名もカダアンと同様に、アンバガイ・カンの十人の子の中に見える人物。≪村上 1970,62≫
- ^ 村上 1970,p59-62
- 1 カブル・カンとは
- 2 カブル・カンの概要
- 3 系図
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