カムク・モンゴル史
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「カムク・モンゴル」の記事における「カムク・モンゴル史」の解説
トンビナイ・セチェンの息子カブル・カンは未発達な状態にあったモンゴル社会を統一して自らを君主とする首長制国家に進展させ、このようなカブル・カンの事跡を『元朝秘史』は「カブル・カンはあまねきモンゴル(カムク・モンゴル)を統べた」と表現している。 モンゴル部の諸氏族を傘下に置いたカブル・カンは大規模な兵力を動員することが可能となり、金朝への侵攻を開始した。南宋との対立も抱える金朝はカブル・カンの侵攻を抑えることができず、連年敗戦を喫した。1147年、やむなく金朝はカブル・カンと講和を結び、西平河以北の27城を割譲し、毎年牛・羊・米・荳を与えることを約し、更にカブル・カンを「朦骨(モンゴル)国主」として冊封した。この時、カブル・カンは「祖元皇帝」を自称し、天興と改元したという。 カブル・カンは自らの息子ではなく又従兄弟に当たるアンバガイを後継者とし、カブル・カンの死後にはアンバガイ・カンが即位して「あまねきモンゴル」を統べた。しかし、アンバガイ・カンはタタル部の謀略によって娘が嫁入りするのを送る途上で捕らえられ、金朝に送られてそこで処刑された。これ以後、タタル部はモンゴル部最大の仇敵として抗争を続けることとなる。 アンバガイ・カンの死後、モンゴル部は新たにカブル・カンの息子クトラ・カンをゴルゴナク川原で推戴した。クトラ・カンはカダアン・タイシらと協力してモンゴル部の復権とタタル部の打倒を目指して闘ったが果たせなかった。また、クトラ・カンの治世においてカブル・カンの孫、クトラ・カンの甥に当たるイェスゲイ・バートルはメルキト部に嫁ぐ予定であったホエルンを掠奪し、自らの妻とした。 クトラ・カンの死後、モンゴル社会では有力氏族間の対立が続いたため、遂に「あまねきモンゴル」を統べるカンは選出されなくなった。キヤト氏集団の長であるイェスゲイ・バートルが一時有力となったものの、イェスゲイもまたタタル部の謀略によって毒殺されてしまった。イェスゲイの死によってモンゴル部の内部分裂は決定的となり、アンバガイ・カンを始祖とするタイチウト氏はカブル・カンを始祖とするキヤト氏と袂を分かち、イェスゲイの長子でキヤト氏の長となったテムジンの下からは多くの民が離散した。 後にテムジンが成長しかつて離散したモンゴル部の民を取り戻すと、テムジンはクトラ・カン以来の「あまねきモンゴル」を統治するチンギス・カンとして推戴された。しかしチンギス・カンは旧来の氏族的な紐帯に頼るカムク・モンゴル・ウルスの体制を改革して千人隊を基盤とする新たな統治制度を確立し、こうしてカムク・モンゴル・ウルスはイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)へと変貌を遂げた。
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