カムク・モンゴル史とは? わかりやすく解説

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カムク・モンゴル史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:32 UTC 版)

カムク・モンゴル」の記事における「カムク・モンゴル史」の解説

トンビナイ・セチェン息子カブル・カン未発達な状態にあったモンゴル社会統一して自らを君主とする首長制国家進展させ、このようなカブル・カン事跡を『元朝秘史』は「カブル・カンはあまねきモンゴル(カムク・モンゴル)を統べた」と表現している。 モンゴル部諸氏族を傘下置いたカブル・カン大規模な兵力動員することが可能となり、金朝への侵攻開始した南宋との対立抱え金朝カブル・カン侵攻抑えることができず、連年敗戦喫した1147年やむなく金朝カブル・カン講和を結び、西平以北27城を割譲し毎年牛・羊・米・荳を与えることを約し、更にカブル・カンを「朦骨(モンゴル)国主」として冊封した。この時、カブル・カンは「祖元皇帝」を自称し天興改元したという。 カブル・カンは自らの息子ではなく又従兄弟に当たるアンバガイを後継者とし、カブル・カン死後にはアンバガイ・カン即位して「あまねきモンゴル」を統べた。しかし、アンバガイ・カンタタル部謀略によって娘が嫁入りするのを送る途上捕らえられ金朝送られてそこで処刑された。これ以後タタル部モンゴル部最大仇敵として抗争続けることとなる。 アンバガイ・カン死後モンゴル部新たにカブル・カン息子クトラ・カンをゴルゴナク川原推戴した。クトラ・カンはカダアン・タイシらと協力してモンゴル部復権タタル部打倒目指し闘った果たせなかった。また、クトラ・カン治世においてカブル・カンの孫、クトラ・カンの甥に当たるイェスゲイ・バートルメルキト部に嫁ぐ予定であったホエルン掠奪し、自らの妻とした。 クトラ・カン死後モンゴル社会では有力氏族間の対立続いたため、遂に「あまねきモンゴル」を統べるカン選出されなくなったキヤト氏集団の長であるイェスゲイ・バートル一時有力となったものの、イェスゲイもまたタタル部謀略によって毒殺されてしまった。イェスゲイ死によってモンゴル部内部分裂決定的となり、アンバガイ・カン始祖とするタイチウト氏カブル・カン始祖とするキヤト氏と袂を分かちイェスゲイ長子キヤト氏の長となったテムジンの下からは多くの民が離散した。 後にテムジン成長しかつて離散したモンゴル部の民を取り戻すと、テムジンクトラ・カン以来の「あまねきモンゴル」を統治するチンギス・カンとして推戴された。しかしチンギス・カン旧来の氏族的な紐帯に頼るカムク・モンゴル・ウルスの体制改革して千人隊基盤とする新たな統治制度確立し、こうしてカムク・モンゴル・ウルスはイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)へと変貌遂げた

※この「カムク・モンゴル史」の解説は、「カムク・モンゴル」の解説の一部です。
「カムク・モンゴル史」を含む「カムク・モンゴル」の記事については、「カムク・モンゴル」の概要を参照ください。

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