現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報」の解説
この説で源義経と同一人物とされるチンギス・カンの生年に関してであるが、 現存資料での記述によっておのおの異なっているため1155年説、1162年、1167年説といった諸説あって、まだ厳密に確定し切れていない。しかし、チンギス・カン自身の家系は諸資料ではっきりとした記載があり、チンギス・カンの曾祖父カブル・カンを始祖とするキヤト氏族の家系について、諸資料の間のおおよその親族情報は一致している。 昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、中央ユーラシアの遊牧民は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、匈奴に於いては中核氏族である攣鞮氏が単于位を、突厥においては阿史那氏が可汗位および主要な地位を独占し、それ以外の氏族はこの地位につけなかったことが知られている 祖先の系譜については、『元朝秘史』に取材した井上靖の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国や中央アジア・イランやモンゴル本土で存続したその後継諸政権においてチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされるアラン・コアとその息子ボドンチャルであった。また、上でも述べたように、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『集史』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル=アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料もカブル・カン→バルタン・バアトル→イェスゲイ・バアトル→テムジン(チンギス・カン)という流れは共通して記録している。 チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため、実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。
※この「現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。
- 現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報のページへのリンク