1,8‐ジヒドロキシアントラキノン
分子式: | C14H8O4 |
その他の名称: | アルタン、イスチン、ジオノン、ドルバン、イスチジン、クリサジン、ジアクオン、ダントロン、ラキシプリン、ラキサントレン、アントラプロール、Altan、Istin、Dantron、Dionone、Dorbane、Istizin、Danthron、Diaquone、Chrysazin、Laxipurin、Antrapurol、Laxanthrene、1,8-Dihydroxy-9,10-anthracenedione、1,8-Dihydroxyanthraquinone、Danthrone、1,8-Dihydroxyanthracene-9,10-dione、1,8-Dihydroxyanthracene-9(10H),10-dione |
体系名: | 9,10-ジヒドロ-9,10-ジオキソアントラセン-1,8-ジオール、1,8-ジヒドロキシ-9,10-アントラキノン、1,8-ジヒドロキシアントラキノン、1,8-ジヒドロキシ-9,10-アントラセンジオン、1,8-ジヒドロキシアントラセン-9,10-ジオン、1,8-ジヒドロキシアントラセン-9(10H),10-ジオン |
塩酸トリヘキシフェニジル
分子式: | ClH C20H31NO |
その他の名称: | アルタン、シクロドール、ベンズヘキソール塩酸塩、Win-511、Triphenidyl hydrochloride、Trihexyphenidyl hydrochloride、Romparkin、Parkopan、Parkinsan、Cyclodol、Benzhexol hydrochloride、Artane、ロムパルキン、パルキンサン、塩酸トリフェニジル、トリフェニジル塩酸塩、トリヘキシフェニジル塩酸塩、ロムパーキン、パルコパン、パーキンサン、アーテン、塩酸トリヘキシフェニジル、塩酸トリヘキシフェニジール、ストブラン、Stobrun、セドリーナ、Sedrena、トリフェジノン、Triphedinon、トリヘキシン、Trihexin、トレミン、Tremin、パキソナール、Pakisonal、パーキネス、Parkines、ピラミスチン、Pyramistin |
体系名: | α-シクロヘキシル-α-フェニル-1-ピペリジン-1-プロパノール・塩酸塩 |
アルタン
アルタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/18 15:17 UTC 版)
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アルタン Altan |
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アルタン(2010年)
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基本情報 | |
出身地 | ![]() |
ジャンル | アイリッシュ・トラディショナル、フォーク |
活動期間 | 1987年 - |
レーベル | グリーン・リネット、ヴァージン、ナラダ、Compass |
公式サイト | altan |
メンバー | マレード・ニ・ウィニー キーラン・クラン マーク・ケリー ダヒー・スプロール マーティン・トゥーリッシュ クレア・フリール |
旧メンバー | フランキー・ケネディ ポール・オショネシー ダーモット・バーン キーラン・トゥーリッシュ |
アルタン(Altan)は、アイルランド共和国ドニゴール県のアイルランド音楽のバンド。
経歴
フランキー・ケネディがベルファストからドニゴールまで夏季休暇中に旅し、アイルランド語と演奏を学んだ。そしてマレード・ニ・ウィニーと出会い、1981年に結婚した。彼らは最初の有名なベルファストの歌手にしてアイルランド語に熱心であったアルバート・フライ(Albert Fry)の3枚のアルバムでフィーチャーされた。2年後、ファースト・アルバム『北の調べ』を発表した。ニ・ウィニーはアイルランド語を話すグウィドー出身で、著名なフィドル奏者であった父フランシー・ムーニーよりフィドルを教わった。当時、ドニゴールの音楽は県外ではあまり知られていなかった。ケネディのレパートリーにはティロンとファーマナを旅行した際に書かれた北部の無名なフルート曲がいくつか含まれていた。マレードが傑出した声を持っていたと同時に非凡なフィドルの才能があったことによっても二人は注目を集めた。
深夜のセッションとフェスティバルを重ね、彼らは次第に才能の補い手を集めるようになった。最初に加わったのがファーマナ出身のブズーキ奏者キーラン・クランであった。そして、ロック、ブルース、ジャズ、カントリーそしてクラシックを経験したギター奏者マーク・ケリーが加わった。この4人による最初のアルバム『アルタン』を発表したが、アルタンというバンド名は次の『ホース・ウィズ・ア・ハート』までは使われなかった。このアルタンという名はドニゴール北西部の湖に由来する。
その後、グリーン・リネットより4枚のアルバムをリリースし、アイルランドだけでなくアメリカのビルボード・チャートにもランクインした。他にダブリン生まれであったがドニゴールのゲールタハトへの遠足で幼少期からドニゴールの伝統に染まっていたフィドル奏者ポール・オショネシーが数年間加わっていた。二つのフィドルの音はこの時期にはバンドにとって必須のものとなって、オショネシーが離脱した代わりに若きフィドル奏者キーラン・トゥーリッシュが加わった。1992年にはギタリストダヒー・スプロールも加入。賞賛を受ける彼らの後ろには密かなる悲劇が待ちうけていた。1992年リーダーとマネージャーを務めるフランキー・ケネディががんと診断されたのである。ケネディは可能な限り参加を続ける意志を貫き、1994年にベルファストのロイヤル・ヴィクトリア病院で息を引き取った。
1996年彼らは大手レーベルのヴァージン・レコードへ移籍、成功への契約であったが、彼らの場合はいかなる商業的妥協もなかった。同年、ドニゴール出身のアコーディオン奏者ダーモット・バーンを加えた。そしてアルバムのゲストとして作詞家兼ギタリストスティーヴ・クーニー、プランクシティからドーナル・ラニー、ブルース・ギタリストのボニー・レイット、カントリー歌手ドリー・パートンなどを迎えた。
1998年の来日時、ソウル・フラワー・ユニオンの「風の市」「イーチ・リトル・シング」のレコーディングにメンバー全員で参加(アルバム『ウィンズ・フェアグラウンド』に収録)。
2001年、トゥーリッシュとニ・ウィニーはアフロ・ケルト・サウンド・システムの『Volume 3: Further in Time』へ参加した。
今日ではフランキー・ケネディを記念してFrankie Kennedy Winter Schoolが毎年開かれている。
今なお、アルタンは最も成功したゲール語歌及びドニゴールのフィドルの使い手である。2003年にはBBC Radio 2 Folk Awardsのベスト・グループ賞を獲得した。
メンバー
現在のメンバー
- マレード・ニ・ウィニー(Mairéad Ní Mhaonaigh) - フィドル、ボーカル
- キーラン・クラン(Ciarán Curran) - ブズーキ
- マーク・ケリー(Mark Kelly) - ギター
- ダヒー・スプロール(Dáithí Sproule) - ギター、ボーカル
- マーティン・トゥーリッシュ(Martin Tourish) - アコーディオン
- クレア・フリール(Clare Friel) – フィドル
旧メンバー
- フランキー・ケネディ(Frankie Kennedy) :フルート
- ポール・オショネシー(Paul O'Shaughnessy):フィドル
- ダーモット・バーン(Dermot Byrne):アコーディオン
- キーラン・トゥーリッシュ(Ciarán Tourish) - フィドル、ティン・ホイッスル
ディスコグラフィ
マレード・ニ・ウィニー&フランキー・ケネディ
- 『北の調べ』 - Ceol Aduaidh (1983年)
- 『アルタン』 - Altan (1987年)
アルタン
スタジオ・アルバム
- 『ホース・ウィズ・ア・ハート』 - Horse with a Heart (1989年)
- 『レッド・クロウ』 - The Red Crow (1990年)
- 『ハーベスト・ストーム』 - Harvest Storm (1991年)
- 『アイランド・エンジェル』 - Island Angel (1993年)
- 『ブラックウォーター』 - Blackwater (1996年)
- 『ラナウェイ・サンデイ』 - Runaway Sunday (1997年)
- 『アナザー・スカイ』 - Another Sky (2000年)
- 『ブルー・アイドル』 - The Blue Idol (2002年)
- 『ローカル・グラウンド』 - Local Ground (2005年)
- 『アルタン with RTEコンサート・オーケストラ』 - 25th Anniversary Celebration (2010年)
- 『ポイズン・グレン』 - Gleann Nimhe - The Poison Glen (2012年)
- 『ザ・ワイドニング・ジャイル~広がる螺旋』 - The Widening Gyre (2015年)
- 『ザ・ギャップ・オブ・ドリームス』 - The Gap of Dreams (2018年)
- Donegal (2024年)
ライブ・アルバム
- 『ベスト・プラス・ライヴ』 - The Best Of Altan (1997年)
コンピレーション・アルバム
- 『ファースト・テン・イヤーズ』 - The First Ten Years (1986-1995) (1995年)
- 『ヴォイス・オブ・アルタン~アルタン・ベスト・コレクション』 - Voice of Altan (1995年) ※日本編集
- 『ベスト・プラス・ライヴ』 - The Best of Altan (1997年)
- 『ダンス・オブ・アルタン~アルタン・ベスト・セレクション』 - Dance of Altan (1997年) ※日本編集
- Altan's Finest (2000年)
- Once Again 1987–1993 (2000年)
- 『ザ・ソングス-ザ・ベスト・オブ・アルタン』 - The Best of Altan: The Songs (2003年)
外部リンク
アルタン(テラス)
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「ハイデルベルク城」の記事における「アルタン(テラス)」の解説
「アルタン (Altan)」は、古いアラビア語で「赤」を意味する "Al" と「朝夕」を意味する "tan" が合成されたものである。 「選帝侯のバルコニー」と呼ばれるアルタン(現在の見学者テラス)は、ネッカー渓谷、ハイデルベルク市街、対岸の哲学の小径があるハイリゲンベルクが眺められる。アルタンの西端は大樽棟につながっている。アルタンはフリードリヒ館から8m以上の幅を持つスペースで、城の小径を通って市街へと通じている。 アルタンの下部は、武器、弾薬、軍支給品の保管庫であり、兵士のシェルターとなっていた。アルタンは直接フリードリヒ館と接してはおらず約8mの隙間がある。この隙間を市街へ向かう「城の小径」が通っている。 アルタンの下部、かつての「大砲台」は、人工的に青錆を生じさせた青銅製の砲身が配置されていた。この砲は1794年にフランスのドゥエに運び去られた。 騎士の足跡 この足跡についてヴィルヘルム・ジークムントはその著書『アルト・ハイデルベルク』で以下のように書いている。 「ある時、宴会か何かの催しの際に城の上階から突然火事が起こった。すべての人が安全を確保しなければならなかった。— ある騎士も。彼のいるところからは、部屋も階段も廊下も、すべての出口が炎に遮られていた。炎はカーテンや燃えやすい布を餌食にしていった。炎に取り囲まれた騎士の援助を求める声は何の役にも立たなかった。誰もそれを聞かなかったし、助け出された人は彼ももう救出されたのだと思っていたのかもしれない。 彼にはもう窓からはるか下の地面に飛び降りるしか助かる方法がなかった。騎士の大胆な振る舞いに神が報いたのか、彼は無傷で飛び降りることができた。しかし丈夫なブーツが地面に穴を開け、そこに足跡を残し、今でもそれを見ることができる。人々は奇妙なことにだんだん深くなるアルタンの足跡を騎士の足跡と呼ぶようになった。」— ヴィルヘルム・ジークムント: 『アルト・ハイデルベルク』 現在では、城を訪れた観光客が、自分の靴が騎士の足跡と合うかどうかを試している。別の伝説では、この足跡は選帝侯フリードリヒ4世が泥酔して宮殿であるフリードリヒ館から飛び降りテラスに残したものであるとしている。観光ガイドなどでは、選帝侯妃の浮気相手であった騎士が、密会を見つかりそうになり、選帝侯妃の寝室から飛び降りた跡とも説明される。
※この「アルタン(テラス)」の解説は、「ハイデルベルク城」の解説の一部です。
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固有名詞の分類
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