アルタレナ号事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 20:39 UTC 版)
「ダヴィド・ベン=グリオン」の記事における「アルタレナ号事件」の解説
1948年6月19日、第一次中東戦争の休戦中、900人のイスラエルへの移民と多数のイルグン義勇兵、他にライフル、軽機関銃などイルグンの武器を積み込んだ輸送船アルタレナ号が、南フランスからイスラエルの海岸に航行してきた。ベン=グリオンはすでに正式にIDFに編入されていたイルグンの分派活動を許さず、武器の引渡しを求めたが、ベギンはこの要求に応じなかった。20日にはアルタレナ号はクファル・ヴィトキン沿岸に接近した。結果イスラエル軍と銃撃戦となり、その場でイスラエル軍側2名、イルグン側6名の死者を出した。上陸したイルグンは降伏し、命令に従うことを約束したが、アルタレナ号はその場を去っていった。 翌21日夜、ベン=グリオンと国防次官レヴィ・エシュコル、シモン・ペレスらはテルアヴィヴから少し内陸にあるラマト・ガンの陸軍本部で反対派の襲撃に備え、ライフル片手に一夜を過ごした。その頃、ベギンらの乗るアルタレナ号は南下してテルアヴィヴに向かっていた。ベン=グリオンは彼らに繰り返し武器の引渡しを命じたが、拒否された。アルタレナのイルグン勢は海岸付近に集結したイスラエル軍に対し機関銃を浴びせ、戦端を開いた。応戦で船は炎上した。 22日、ベン=グリオンは臨時評議会の会議を招集し、この事件を報告したとき、「船を燃え上がらせた船は幸いだ。この銃はやがてイスラエル戦争博物館に展示されるだろう」と語った。 また、イルグン側に死者が出たことに世論が悼んでいることを憂慮したが、評議会の一員のラビ(導師)メイル・ベルリンは『ユダヤ人によるユダヤ人の殺害』として警告を発した。 ベン=グリオンは反論し、次のように述べた。 国家あるいは軍に対する武装蜂起は軍事力で鎮圧することも出来るが、危険を取り除くには軍事力だけでは十分ではない。反対派のごまかしが通用したのは、主として各層の支持を受けたからだ。以前ならこうした支持は正当化するのは難しいにしても説明はついたかもしれない。だが今ではその説明すら難しい。我々は今、生きるか死ぬかの闘いのさなかにあるからだ。今は休戦中だが戦争が終わったわけではない。敵は国内に砦を築いて立てこもっている。エルサレムはアラブ軍団とその砲列に包囲されている。ネゲブ街道はエジプト大群の掌中にある。ミシュマル・ハ・ヤルデンはシリアが占拠している。さらに国境にはアラブ軍が待機している。国内武装ギャングの傲慢な行動は、我々の未来を防衛しユダヤ民族全体の未来を防衛する力をはなはだしく損ねている。この国の国民と全世界のユダヤ人がこうした組織が存在することの悲劇的な意味を理解しない限り、この種の危険は続くだろう。この悪を根絶するために、軍だけでなく全国民が力を尽くさなければならない。
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