アルタン・ハーンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 06:48 UTC 版)
バルス・ボラト・サイン・アラク晋王が1531年に亡くなると、長男のグン・ビリクが晋王の位についてオルドス・トゥメンを領し、次男のアルタンが十二トゥメト部を領した。 右翼のグン・ビリク・メルゲン晋王とアルタンの兄弟は毎年、オイラト,モグリスタン,青海の遊牧民を征伐し、明に侵入して略奪を繰り返した。1571年、アルタンは明の隆慶帝と講和を結び、「順義王」の称号を授けられる。1542年にグン・ビリク・メルゲン晋王が亡くなると、左翼チャハル部のボディ・アラク・ハーンはアルタンを右翼の新しい指導者と認めて、トシェート・セチェン・ハーンの称号を授け、モンゴルで2番目のハーンに位置付けた。1578年、アルタン・ハーンはチベット仏教ゲルク派の高僧ソェナム・ギャツォに「ダライ・ラマ」の称号を贈った。 1582年、アルタン・ハーンが亡くなると、センゲ・ドゥーレン・テムル皇太子が後を継いでハーンとなった。
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