ヘルート結党
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1948年8月、ベギンと元イルグン総司令部のメンバーは右翼政党のヘルート(Herut、自由)を立ち上げる。ヘルートは現在のリクードの根幹となる政党で、ベギンの理解者であったジャボチンスキーの修正主義シオニズムを論理的基盤としていた。 1948年11月、ベギンは政党のアピールのため訪米した。この訪問中にアルベルト・アインシュタインを始め、ユダヤ人思想家ハンナ・アーレントやシドニー・フック、そのほかに数人のラビなど、アメリカに住むユダヤ系の著名人らは、ヘルートの政治姿勢や行いはナチスに近く、ファシズム政党であると批判する連名の書簡をニューヨーク・タイムズに送り、掲載された。 1949年のイスラエル建国後初の選挙(第一クネセト)でヘルートは11.5%の投票率、そして14の議席を得る。与党マパイに対抗するため1965年には自由党などと連合したガハルを結成。1973年、ガハルは、現在の右派政党リクードとなった。 アルタレナ号事件以来、犬猿の仲となっていたベギンとベン=グリオンは対立する政党を通じてお互いを批判しあった。ベギンはマパイをボリシェビキを国民に強制しているとし、ベン=グリオンはヘルートとイスラエル共産党は不必要と洩らしていたという。 中でも二人の対立が際立ったのが1952年の西ドイツに対するホロコーストの賠償請求をベン=グリオンが推進したことだった。ベギンはナチスの人道的犯罪は賠償金によって解決されるべきではないと考えていた。彼はエルサレムで政権打倒を掲げたデモ行進を扇動し、民衆が石を投げるなどして警察官や議員が負傷する事態となった。この騒動でベギンは数ヶ月間議会への出入り禁止の処分を受けることになる。
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