フリードリヒ館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 16:40 UTC 版)
フリードリヒ館(Friedrichsbau)はマンハイムの創設者である選帝侯フリードリヒ4世にちなんで名付けられた。 フリードリヒ4世は1608年にプロテスタント同盟の盟主となり、これによりカトリック領主とプロテスタント領主の間の対立を激化させた人物である。フリードリヒ4世は、さほど教育を受けなかったにもかかわらず、人文科学に多大な興味を持ち、ハイデルベルク大学に歴史学とオリエント学の講座を開設した。フリードリヒ4世は自分の遊興に多大な富を費やし、国の財政を破綻させた。後にその放埒加減と宿酔は「故人となって初めて完全な正気に戻った」とまで言われた。フリードリヒ4世は1606年から1607年に、後にフリードリヒスブルク要塞と名付けられる施設を建設したことで永遠の重要人物である。この要塞がマンハイムの宮殿と都市の原型となったためである。ハイデルベルク城での主な成果は彼にちなんでフリードリヒ館と呼ばれる建物とバルコニー棟を建設し、東側の3つの塔を拡充したことである。 選帝侯フリードリヒ4世は、当時すでに崩れかけていた城内礼拝堂と居館の場所に1601年から1607年にかけてフリードリヒ館を建設した。ヨハネス・ショッホがこの建物の建設を担当した。フリードリヒ館の中庭に向いたファサードには選帝侯の先祖の像が飾られている。これらの像の彫刻はクールのゼバスティアン・ゲッツが作製した。飾られている人物は、左上から順に、以下の通りである。 破風部:カール大帝、バイエルン公オットー1世、バイエルン公ルートヴィヒ1世、バイエルン公兼ライン宮中伯ルドルフ1世 上層、4人の王冠を被ったヴィッテルスバッハ家の人物:神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世、プファルツ選帝侯ループレヒト1世、ハンガリー王オットー、デンマーク・ノルウェー・スウェーデン王クリストファ3世 中層:ループレヒト1世、プファルツ選帝侯フリードリヒ1世、プファルツ選帝侯フリードリヒ2世、プファルツ選帝侯オットー・ハインリヒ 下層:プファルツ選帝侯フリードリヒ3世、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミール、フリードリヒ4世 破風部には、この他にこの世の無常を暗示する春と夏のアレゴリー像も飾られている。 フリードリヒ館はこの城で最初の宮殿建築であり、都市側に特徴的なファサードを有している。1階は現在も無傷で保存された城内教会となっており、上階部分が居館として用いられた。 1693年の壊滅的な火災後、1764年にこの部分は再建された。1890年から1900年にかけて、カールスルーエの教授カール・シェーファーの歴史主義的な様式に基づいたプランにより再建された。これに伴って内部を作り込むかどうかが、当時激しい議論となった。特に芸術史家のゲオルク・デヒオは、建物はその元のままの構造で保存すべきであると主張した。結局、内装はネオ・ルネサンス様式で造形された。フリードリヒ館内の多くの空間が様々な様式により自由に構成されている。この建物はその後居館として使われることなく、博物館のような役割を担っている。
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