フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の統治
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「フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)」の記事における「フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の統治」の解説
1840年6月7日にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は即位した。その即位は自由主義派と保守派を新国王への大きな期待で結びつけた。数千人の聴衆を前にして演説した最初のプロイセン国王であったので、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がその期待に沿っているように見えた。1840年9月10日のケーニヒスベルクと10月15日のベルリンでのプロイセン王国の立場表明に際して(彼の父王による憲法制定の約束を確認した)の発言であった。 彼は父王のおこなった復古的、抑圧的政治を終わらせた。同時にローマ・カトリック教会との対立も大きな譲歩をすることで解消させた。同様に、彼は古ルター派に向けた抑圧政策も終わらせた。その結果、逮捕されていた牧師は釈放され、古ルター派教会による独自教会組織結成も許され、教会堂の建設も認められた。ただし、古ルター派教会には教会塔の建設と鐘を鳴らすことを禁じる制約が課せられた。前王の時代に逮捕されていたフリッツ・ロイターやフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(英語版)のような自由主義者たちに恩赦を与えた。さらに、エルンスト・アルント、ヘルマン・フォン・ボイエン、グリム兄弟たちを復職させた。 オーストリアに対抗して、彼はドイツ連邦に向けてカールスバート決議を押し通すことを止めるように働きかけた。しかしながら、その後も検閲だけは続けられていた。1840年から1857年までフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はスイスのヌーシャテル (ドイツ語ではノイエンブルク) 侯でもあった。この称号は侯国の独立以後も維持された。
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