モンゴル帝国の高麗攻撃、三別抄から日本への要請
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
「日朝関係史」の記事における「モンゴル帝国の高麗攻撃、三別抄から日本への要請」の解説
モンゴル帝国は6度にわたるモンゴルの高麗侵攻によって高麗を服属させた。『高麗史』や『元史』によれば、高麗の官僚趙彜や、のちに忠烈王となる王世子の要請があったために日本攻撃が決定された。高麗国王はモンゴル軍によって王権を回復した際に、モンゴルの出征に積極的な協力をするという方針を定められており、そのため日本攻撃を進言したとされる。高麗がモンゴル帝国に服属すると、武臣政権の頃に設立された軍事組織である三別抄はモンゴルと高麗王に対して蜂起し、耽羅を拠点として日本へ救援を求めた。鎌倉幕府は三別抄からの要請に応じず、三別抄は敗北して朝鮮半島全土がモンゴルの勢力下となった。元の世祖クビライは高麗統治の方針を軟化させて、高麗軍は元軍とともに日本を攻撃する決定を下す。
※この「モンゴル帝国の高麗攻撃、三別抄から日本への要請」の解説は、「日朝関係史」の解説の一部です。
「モンゴル帝国の高麗攻撃、三別抄から日本への要請」を含む「日朝関係史」の記事については、「日朝関係史」の概要を参照ください。
- モンゴル帝国の高麗攻撃、三別抄から日本への要請のページへのリンク