モンゴル帝国の征西
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 04:14 UTC 版)
「アラーウッディーン・ムハンマド」の記事における「モンゴル帝国の征西」の解説
「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」も参照 ガズナの攻略と前後する時期、1215年にアラーウッディーンは中都のチンギス・カンに使節団を派遣し、チンギス・カンから友好関係の構築と通商の開始が提案された。1218年の春、アラーウッディーンはブハラでホラズム出身者からなるモンゴルの使節団と謁見するが、使節団が示した要件は、修好と通商の開始、そしてモンゴル帝国へのホラズム・シャー朝の臣従だった。彼は臣従の要求に激怒するが、使節の一人からモンゴルの兵力がホラズム・シャー朝に比べて微弱なものであると聞かされて気を鎮め、好意的な返答を与えて使節団を送り返した。 同年にオトラルの総督イナルチュクからモンゴル帝国の派遣した通商使節団をスパイの容疑で逮捕した報告を受けると、アラーウッディーンは使節団の処刑を命じ、使節団は処刑された。モンゴルからイナルチュクの処罰を求める使者が送られるが、母テルケン・ハトゥンの親族であり軍内において相当の権限を有していたイナルチュクを処罰することは彼にはできなかった。 一方、同時期にメルキト部の残党がモンゴル軍の追撃を受けてホラズム領キプチャク草原の東端に侵入しており、アラーウッディーンはこれを排除すべく北上し、1219年夏にスブタイ率いるモンゴル軍と遭遇した。モンゴル側は戦闘を避けたがっていたにも関わらずアラーウッディーンは攻撃を仕掛け、モンゴル側の奮戦によってアラーウッディーン率いる中軍が追い詰められる状態に陥った。息子で右翼軍を率いるジャラールッディーンが救援に来たことでアラーウッディーンは難を免れたが、明確な決着がつかないまま両軍はともに軍を引いた(カラ・クムの戦い)。国王自ら率いる精鋭軍がモンゴルの一分遣隊に苦戦させられたという事実はアラーウッディーンに衝撃を与え、以後のホラズムの戦略に多大な影響を与えたと評されている。一方、この一戦を通じて自信を深めたモンゴル軍は遂にホラズム側への侵攻を決意し、同年秋にホラズム・シャー朝はモンゴル軍の大規模な侵攻を受ける。 アラーウッディーンははじめサマルカンドにいたが、モンゴルのマー・ワラー・アンナフル侵入を聞くと1220年4月にサマルカンドを放棄し、逃走路の住民達に自軍は民衆を守れないので各々で方策を考えるよう伝えた。臣下はジャイフーン川に防衛戦を布いて抗戦するべき意見、ガズナに逃れる意見、イラクに逃れる意見に分かれ、アラーウッディーンは徹底抗戦を唱える王子ジャラールッディーンを抑えてイラクへの退却を決定した。ニシャプール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)、カズウィーンを経て、わずかな従者を従えてマーザンダラーンに逃れる。だが、モンゴル軍はすでにマーザンダラーンにも侵入しており、現地の貴族の勧めに従って、モンゴル軍の追撃を振り切ってカスピ海西南岸近くの小島アバスクン島(英語版)に逃れた。アバスクン島に逃れる時、アラーウッディーンは肺病に罹っており、逃亡中にかつては大国の王であった自分が廟を立てるほどの土地すら有していない現状を嘆いた。 日ごとにアラーウッディーンの病は悪化し、彼は王子のジャラールッディーン、ウズラグ・シャー、アーク・シャーを呼び寄せた。ウズラグ・シャーを後継者とする指名を取り消してジャラールッディーンを後継者に選び、ホラズム・シャー朝の再興を託した。指名から2,3日の後、1220年12月にアラーウッディーンは没した。アラーウッディーンは島内に埋葬されたが、遺体を包む経帷子すら欠いており、やむなく彼の遺体は衣服に包まれた。 1229年にジャラールッディーンによるアフラート(英語版)(ヒラート)包囲が行われた時、ジャラールッディーンはエスファハーンにアラーウッディーンの廟を建てることを計画し、アラーウッディーンの遺体はアバスクン島からダマーヴァンド山上の城砦に移された。しかし、廟が完成する前にジャラールッディーンは落命し、城砦に置かれたアラーウッディーンの遺体はモンゴルのオゴデイの元に送られて焼かれた。
※この「モンゴル帝国の征西」の解説は、「アラーウッディーン・ムハンマド」の解説の一部です。
「モンゴル帝国の征西」を含む「アラーウッディーン・ムハンマド」の記事については、「アラーウッディーン・ムハンマド」の概要を参照ください。
- モンゴル帝国の征西のページへのリンク