モンゴル帝国の原像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)
「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「モンゴル帝国の原像」の解説
1206年にモンゴル高原を統一したチンギス・カンは、直ちに新たな国家制度の確立に努めた。チンギス・カンはまず、配下で最も文書能力に長けたシギ・クトクに自らの統治下にある人民の徹底的な人口調査を命じ、その人口調査結果を「青き文書(ココ・デプテル)」という書にまとめさせた。次いで、そのココ・デプテルに基づいて配下の遊牧民を自らの一族に分配した。この時の人口調査・領民分配について、『元朝秘史』は以下のように記している。 あまねき国民を、母に、弟らに、我が子らに、領民(クビ・イルゲン)の名において……分かちて与うべし。……あまねき衆人の所領として分かちたるを、裁決[すべき]を裁決したる青き文書(ココ・デプテル)に文字書き記して、子々孫々に至るまで、シギクトクは朕と相謀りて、規則定めて、青き文字にて真白き紙上に文づくりしたるを改むることなからしめよ。改むる人、そは罪あるものとせよ。 — チンギス・カン、『元朝秘史』第203節 ここで「国民を分け与えた」というのは、国民=遊牧民の分配がモンゴル高原統一戦争を勝ち抜いた一族への「恩賞」として行われたことを意味する。ただし、モンゴル高原統一戦争の過程で捕虜としての国民の分配は逐次行われているので、ここでの人口調査・国民分配は「人口の最終的確認」とそれに基づく「公平な分配」を実施するためのものであったと考えられている。「ココ・デプテル」に記された人口調査の結果(=現代で言う戸籍簿)の内容はモンゴル語で「フジャウル(根・源の意で、転じて「本貫」を意味する)」と呼ばれ、以後モンゴル兵を徴集する際にはこの「フジャウル」に基づくのが通例となった。 『集史』によると、チンギス・カンは自らの息子たちには高原西方の領地と計12,000の民を、弟たちには高原東方の領地と計12,000の民を与え、自らは高原中央部に残った71,000の民を直轄領として治めたという。このような右翼(西方)部・左翼(東方)部・中央からなる3極構造はその後のモンゴル帝国の通商交易・軍事活動にも対応した、「モンゴル帝国の原像」であったと評されている。 以上のような、(1)征服戦争による捕虜の獲得、(2)精密な人口調査による征服地の人口把握、(3)カアン(皇帝)が把握した人口に基づき捕虜=国民を「公平に」再度分配する、という一連の流れは、この後の「投下」領設定における基本構造となる。
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