モンゴル帝国の再編とは? わかりやすく解説

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モンゴル帝国の再編

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)

元 (王朝)」の記事における「モンゴル帝国の再編」の解説

中国の歴史 先史時代 古国時代三皇五帝) (黄河文明長江文明遼河文明) 夏 殷 周西周) 周(東周春秋時代 戦国時代 秦 漢前漢) 新 漢(後漢) 呉(孫呉) 漢(蜀漢) 魏(曹魏) 晋(西晋) 晋(東晋十六国 宋(劉宋) 魏(北魏) 斉(南斉 魏(西魏) 魏(東魏) 陳 (後梁) 周(北周) 斉(北斉) 隋 唐 周(武周五代十国 契丹 宋(北宋) 夏(西夏) 遼 宋(南宋金 元 明 元(北元) 明(南明) 順 後金 清 中華民国 満洲 中華人民共和国 中華民国台湾満洲歴史 箕子朝鮮 東胡 濊貊沃沮 粛慎遼西郡 遼東郡遼西郡 遼東郡 前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴 漢四郡 夫余 後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁 遼東郡 高句麗 玄菟郡昌黎郡 公孫度 遼東郡 玄菟郡 西晋 平州 慕容部 宇文部 前燕 平州 前秦 平州 後燕 平州 北燕 北魏 営州 契丹室韋 東魏 営州 勿吉 北斉 営州 北周 営州柳城郡 靺鞨 燕郡 遼西郡営州 都督府楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府 靺鞨 五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨上京道 東女真 中京定安 東京道 金 東京路 上京路 東遼 大真国遼陽行省遼東都司 奴児干指揮使司 建州女真 海西女真 野人女真満洲 東三省 ロマノフ朝 中華民国東三省ソ連極東満洲国 中華人民共和国中国東北部ロシア連邦極東連邦管区/極東ロシア中国朝鮮関係史 Portal:中国 詳細は「モンゴル帝国帝位継承戦争」を参照 1259年、第4代皇帝モンケ南宋遠征中に病死したとき、モンゴル高原にある当時首都カラコルム留守を預かっていた末弟アリクブケは、モンケ派の王族集めてクリルタイ開き西部チャガタイ家諸王支持取り付けて皇帝位に即こうとしていた。これに対しモンケと共に南宋遠征行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴル入り東方三王家チンギスの弟の家系)などの東部諸王支持得て翌年3月自身本拠地である内モンゴル開平府(のちの上都)でクリルタイ開き皇帝位就いたアリクブケ1か月遅れて皇帝となり、モンゴル帝国には南北2人皇帝並存し、帝国史上初め皇帝位武力争奪する事態となった。この時点では、モンケ葬儀取り仕切り帝都カラコルム即位したアリクブケ正当な皇帝であったカラコルムにも戻らず帝国全土王侯貴族支持もなく、勝手に皇帝称したクビライは、この時点ではクーデター政権であったクビライアリクブケ両軍何度となく激突するが、カラコルム中国からの物資依存していたために、中国抑えたクビライに対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ劣勢余儀なくされた。緒戦1261年のシムトノールの会戦ではクビライ勝利するが、アリクブケ北西モンゴルオイラト支援受けて抵抗続けた。しかし、最終的にアリクブケ劣勢混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王アリクブケから離反し1264年アリクブケクビライ降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライ正統とする立場から、「アリクブケの乱」という。 アリクブケ降伏によりモンゴル皇帝の位は再び統合されたが、西の中央アジア方面では、アリクブケの乱もたらした混乱皇帝権威決定的な打撃与えていた。1265年クビライ西方諸王家当主たちに呼び掛けて統一クリルタイ開催計画したが、ほどなく西方遠征軍司令イルハン朝始祖となった次弟フレグジョチ・ウルス当主ベルケクビライ支持していたチャガタイ家当主アルグ次々と死去し、この統一クリルタイによって自身の全モンゴル帝国規模正式なモンゴル皇帝位承認目論んでいたクビライ計画は、大きく頓挫した1266年クビライアルグ死による欠を補いチャガタイ家中央アジア動向掌握するため、チャガタイ家傍流バラクチャガタイ家本領であるイリ方面派遣した。しかし、バラククビライから共同統治指示されていたにもかかわらずクビライの命と称してチャガタイ家当主ムバーラク・シャーから権力奪い取り、自ら新当主宣言してクビライ叛乱起こしたバラクカイドゥ領土侵犯しマー・ワラー・アンナフル侵攻する構え見せカイドゥはこれに対抗するためジョチ・ウルス救援求めた。これに応えてジョチ・ウルス東方総帥であるオルダ家の当主コニチ5万軍勢率いて加勢しバラク敗走したが、バラク中央アジア権益についての合議カイドゥジョチ・ウルス当主モンケ・テムル申し入れた1269年中央アジア支配するチャガタイ家バラクオゴデイ家カイドゥ、そしてジョチ家当主モンケ・テムル名代ベルケ同母弟ベルケチェル)の諸王タラス河畔で会盟し、中央アジアモンゴル皇帝領の争奪止めこのうちマー・ワラー・アンナフル3分の2バラクに、残り3分の1ジョチ家カイドゥ折半することが決まった1270年バラクイルハン朝アバカとの会戦大敗してブハラ客死しアバカとのマーワーアンナフル争奪敗れカイドゥとの紛争にも敗れたチャガタイ家王族たちは、ムバーラク・シャーアバカのもとへ帰順しアフガニスタンガズニー所領として分与され、バラクの子ドゥアカイドゥに応じて中央アジアチャガタイ家当主となり、アルグ遺児チュベイらの一門東方赴いてクビライ帰順したクビライ南宋バヤン降服した1267年、第4皇子ノムガン主将とするカイドゥ討伐軍を中央アジア派遣し同時にアバカにも正式な封冊によって「カアン代官(ダルガ)」の称号与えてカイドゥ挟撃する作戦出た。ところが、ノムガン遠征軍は、アルマリク遠征軍参加していたモンケの子シリギらに叛乱起こされノムガン副将アントン同じく第9皇子ココチュともども捕縛されてしまった。シリギ叛乱王族たちはカイドゥモンケ・テムルに共に決起するよう呼び掛けたノムガンココチュ兄弟をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥ人質として送ったが、両者ノムガンらを保護したものの決起には全くに応じなかった。クビライ南宋戦線からバヤンカラコルム転戦させると、反乱軍速やかに鎮圧されてしまった。反乱軍加わっていたアリク・ブケ家のヨブクルメリク・テムルクビライからの処罰恐れてカイドゥのもとに逃れた。こうしてシリギ叛乱収束したが、クビライによる中央アジア直接支配計画2度にわたり頓挫し代わりにカイドゥは自らの所領加えドゥア西部チャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリクブケ家の3つのウルス勢力下に収めることができた(シリギの乱)。 その間クビライ政治機関として中書省設置しカラコルムにかわる新都として中国北部大都現在の北京)を造営地方ではモンゴル帝国の金攻略過程自立してモンゴルに帰附し、華北各地在地支配行ってきた漢人世侯呼ばれる在地軍閥中央政府モンゴル貴族錯綜した支配関係整理して各路に総管府を置くなど、中国支配適合した新国家体制建設着々と邁進し1271年国号大元とした。モンゴル帝国西部対すモンゴル皇帝直轄支配消滅と、中国軸足置いた新しモンゴル皇帝政大元成立をもってモンゴル帝国緩やかな連合へ再編がさらに進んだ

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モンゴル帝国の再編

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)

モンゴル帝国」の記事における「モンゴル帝国の再編」の解説

モンケの死は1260年の春頃に西征中のフレグ届きフレグ本隊西進中止して帰還開始したフレグ帰還した結果モンゴル軍アイン・ジャールートの戦い破れシリア一帯マムルーク朝譲り渡すことになった首都カラコルムにあって留守守っていたのは末弟アリクブケであったアリクブケモンケの旧政府支持を受け、事実上監国立場で第5代モンゴル皇帝カアン)に即位しようとしたが、南宋遠征別働隊率いて中国にいた次兄クビライ中国および南モンゴリア、そして東モンゴリアチンギス・カン諸弟のウルス支持受けて本拠地金蓮川(開平)で自らモンゴル皇帝カアン)に即位した続いてアリクブケ首都カラコルム即位しモンゴル帝国2人モンゴル皇帝並立する南北分裂態となる(モンゴル帝国帝位継承戦争)。 この内紛の最中に、西アジア方面軍総督であったフレグアム川以西行政機関支配下におき、イランに留まって西アジア支配する自立政権イルハン朝建設したそれまで帝国内諸ウルスは、帝国中央から直属遊牧民分与され、遊牧勢力圏認められてはいたが、たとえその勢力圏であろうと、都市定住民の統治帝国中央のカアン統治にあったイルハン朝西アジア方面軍将兵として配下にあった遊牧騎士だけでなく征服地の都市定住民も統治下に置き、カアン権威戴きつつも領域国家としての自立性をもった最初帝国勢力となった。これは後にモンゴル帝国4つ領域国家カアン権威下に緩やかに連合する体制移行する嚆矢となったイルハン朝南カフカス草原地帯支配めぐってジョチ・ウルス継承したバトゥの弟ベルケ対立し、両政権争い始めた(ベルケ・フレグ戦争英語版))。 東方モンゴル帝国帝位継承戦争と、西方のベルケ・フレグ戦争英語版)は、モンケ弾圧以来低迷していた中央アジアオゴデイ・ウルスおよびチャガタイ・ウルス勢にとって、その間勢力盛り返す絶好機会となり、カイドゥらが台頭する土壌となった

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