モンゴル帝国の再編
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モンゴル帝国の再編
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モンケの死は1260年の春頃に西征中のフレグに届き、フレグの本隊は西進を中止して帰還を開始した。フレグが帰還した結果、モンゴル軍はアイン・ジャールートの戦いに破れ、シリア一帯をマムルーク朝に譲り渡すことになった。首都カラコルムにあって留守を守っていたのは末弟のアリクブケであった。アリクブケはモンケの旧政府の支持を受け、事実上の監国の立場で第5代モンゴル皇帝(カアン)に即位しようとしたが、南宋遠征で別働隊を率いて中国にいた次兄のクビライが中国および南モンゴリア、そして東モンゴリアのチンギス・カン諸弟のウルスの支持を受けて、本拠地の金蓮川(開平)で自らモンゴル皇帝(カアン)に即位した。続いてアリクブケも首都カラコルムで即位し、モンゴル帝国は2人のモンゴル皇帝が並立する南北分裂状態となる(モンゴル帝国帝位継承戦争)。 この内紛の最中に、西アジア方面軍の総督であったフレグはアム川以西の行政機関を支配下におき、イランに留まって西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。それまでの帝国内諸ウルスは、帝国中央から直属の遊牧民を分与され、遊牧勢力圏を認められてはいたが、たとえその勢力圏であろうと、都市や定住民の統治は帝国中央のカアンの統治下にあった。イルハン朝は西アジア方面軍の将兵として配下にあった遊牧騎士だけでなく征服地の都市や定住民も統治下に置き、カアンの権威を戴きつつも領域国家としての自立性をもった最初の帝国内勢力となった。これは後にモンゴル帝国が4つの領域国家がカアンの権威下に緩やかに連合する体制に移行する嚆矢となった。イルハン朝は南カフカスの草原地帯の支配をめぐってジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ベルケと対立し、両政権は争い始めた(ベルケ・フレグ戦争(英語版))。 東方のモンゴル帝国帝位継承戦争と、西方のベルケ・フレグ戦争(英語版)は、モンケの弾圧以来低迷していた中央アジアのオゴデイ・ウルスおよびチャガタイ・ウルス勢にとって、その間に勢力を盛り返す絶好の機会となり、カイドゥらが台頭する土壌となった。
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