緩やかな連合へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)
1264年、クビライがアリクブケを降し単独のモンゴル皇帝(カアン)となったとき、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになっていた。モンゴル帝国がバトゥのヨーロッパ遠征、フレグの西征のように帝国の全力をあげて遠征を遂行することは不可能になり、帝国の膨張は東アジアを除いて停滞に向かう。 クビライは帝国の分裂的な状況を追認してフレグのイラン支配を認めるとともに、中国を安定的に支配することを目指し様々な改革を打ち出した。しかしこの間、様々な問題が噴出し、事態は混迷していった。まず、アリクブケの命によってチャガタイ家当主となったアルグは、しかしこれに離反してクビライ支持を表明してアリクブケと戦い、これを破りアリクブケ一党の降服とクビライの勝利を確実にさせた(1266年にはアリクブケ没する)。 1264年、クビライはアリクブケの降服によって帝国中枢の混乱を一旦収束させると、統一クリルタイの開催を帝国全土に呼び掛けた。西方のイルハン朝のフレグとジョチ・ウルスのベルケはカフカス以南での度重なる戦闘で膠着状態に陥っていたため、この呼び掛けに応じた。クビライのカアン位宣言は自己の勢力のみで行ったクーデター同然の無理矢理の即位であったため、モンゴル帝国皇帝であるカアンの即位式は、アルグ、ベルケ、フレグの三者を会してのモンゴル全王家臨席の正式なクリルタイが必要であった。
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