緩やかな事業拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:14 UTC 版)
開業直前の雑誌記事によると、静岡電灯の主要な需要家には兵営や郵便局・電信局があったという。開業翌年の1898年(明治31年)4月に電灯料金を値上げしたため一時200灯ほどの供給減を引き起こすが、やがて75キロワットの発電力(16燭灯換算1500灯相当)を消化し尽くす。そこで1899年(明治32年)11月に最初の発電所増設を決定し、90キロワットの交流発電機1台などからなる増設設備を翌1900年(明治33年)9月に完成させた。設立以来堅実経営の方針を貫き、役員・従業者は最低限の人数で回し、株主配当を抑制して内部留保を積み増し続けてきていたため、この増設は増資や株金の追加払込なしで達成している。 増設工事中の1900年3月、これまで静岡市内に限られていた供給区域の拡張許可を得て、市域の北隣にあたる安倍郡安東村を供給区域に編入した。供給区域拡大はその後も徐々に拡大されており、1905年(明治38年)5月西側の南賤機村が、1908年(明治41年)10月には南側の大里村と東側の豊田村大字南安東がそれぞれ追加された。また1905年9月には2度目の発電所によって出力150キロワットの交流発電機が完成し、発電力は計315キロワットに引き上げられた。逓信省の資料によると、1910年(明治43年)段階の発電所設備は水管式ボイラー・蒸気機関各3台と出力75・90・150キロワットの単相交流発電機各1台からなる。発電機は75キロワット機を除きゼネラル・エレクトリック (GE) 製である。 1910年下半期の会社報告書によると、静岡電灯は同年末時点で静岡市内と安東・大里・豊田の3村(賤機村は含まれず)に計1546戸の需要家を持ち、7738灯の電灯を取り付けていた。ただし静岡市外での供給はごくわずかで、3村分を合計しても需要家数10戸・灯数149灯に過ぎない。当時の「電灯規則」によると、使用電灯は白熱電灯と弧光灯(炭素アーク灯)の2種、料金徴収の種別には月ごとに一定額を徴収する「月極灯」、電力量計を取り付け使用量に応じて料金を徴収する「メートル灯」、日数を限って点火する「臨時灯」の3種がある。主力の「月極灯」にはさらに「半夜灯」「終夜灯」「門灯」の3種に細分され、これに電灯の燭光(明るさ)を加味して料金が決定される仕組みであった。燭光は白熱灯6燭・10燭・16燭・24燭・32燭と弧光灯1200燭の6種からなり、月額料金は16燭終夜灯で98銭などと定められていた。なおこの料金は約3割の値引きを行った1909年2月の料金改定以後のもので、これ以前は16燭終夜灯の場合月額1円40銭であった。
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