供給区域の拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:19 UTC 版)
信濃電気では西進して長野市方面への進出を試みるにあたり、米子発電所だけでは供給力不足であることから第二の発電所となる高沢発電所の建設に踏み切った。着工は1905年(明治38年)9月、運転開始は翌1906年(明治39年)8月10日からである。所在地は上水内郡信濃尻村大字野尻(現・信濃町野尻)で、新潟県との県境となっている関川上流部に位置する。当初の発電所出力は600 kW。発電所には電圧を14キロボルトに引き上げる昇圧変圧器が置かれ、その反対の降圧変圧器が吉田変電所(所在地:上水内郡吉田村)に置かれた。 逓信省の資料によると、高沢発電所完成後の1908年(明治41年)末時点における信濃電気の供給区域は須坂町・中野町のほか長野市近郊の上水内郡吉田村・三輪村・芹田村など、千曲川(信濃川)上流側の更級郡布施村・稲荷山町や埴科郡松代町・屋代町を含む27町村に及ぶ。加えて長野電灯区域と重複する形で長野市内一円に電力供給区域(電灯供給不可)も設定していた。大型発電所の建設を進める信濃電気の積極経営とは対照的に、長野電灯では需要増加にあわせて発電所の増設を重ねるという堅実経営の路線を進んでおり、同じ1908年末段階でも供給区域は長野市内のほかには上水内郡芋井村・安茂里村と長野駅構内(芹田村所在)に限られた。積極経営の信濃電気では長野市内進出を強めるべく1906年5月に市内の西後町に支店を開設している。 信濃電気の電灯数は1907年(明治40年)に5000灯を超え、翌年には1万灯も超えた。さらに高沢発電所の新設を機に、その発電力を活用する新たな需要として直営で炭化カルシウム(カーバイド)事業を起こした。工場を上水内郡吉田村の信越本線吉田駅(現・しなの鉄道北長野駅)前に設置してアセチレンランプなどに使用されるカーバイドの生産を始めたのである。このカーバイド工業は日本国内においては1902年に宮城紡績電灯(宮城県)で工業的生産が始まったばかりという新興産業であった。1907年のカーバイド製造高は272.5トン。カーバイド以外にも吉田工場はカーバイド炉用の黒鉛電極を自製する設備も持った。 経営面では1907年3月に30万円の増資を決議し、資本金を50万円とした。また同年11月には福島県若松市の小野木源次郎を取締役に追加した。同時期の資料では小野木が専務取締役社長を務める(越寿三郎は取締役)とある。小野木は直前まで広島県警察部長を務めた人物である。 なお、信濃電気が高沢発電所を建設した関川では、1907年5月になって下流側(新潟県側)に新潟県高田市(現・上越市)所在の上越電気、後の中央電気によって蔵々発電所が建設された。同社は1910年9月より県境を越えて長野県下水内郡飯山町への供給を開始しており、北信地方の町の中で飯山町だけは信濃電気や長野電灯の供給区域に含まれていない。また反対に、新潟県側は上越電気の供給区域であるが、高沢発電所の対岸にあたる中頸城郡杉野沢村(現・妙高市杉野沢)に限り後に信濃電気が供給を始めた。新潟県内における信濃電気の供給区域はこの杉野沢村1村のみである。
※この「供給区域の拡張」の解説は、「信濃電気」の解説の一部です。
「供給区域の拡張」を含む「信濃電気」の記事については、「信濃電気」の概要を参照ください。
- 供給区域の拡張のページへのリンク