都城電気の沿革
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「都城市営電気供給事業」の記事における「都城電気の沿革」の解説
1907年(明治40年)8月、清武川の水力発電所を電源として、宮崎県最初の電気供給事業となる日向水力電気が宮崎市に開業した。同社の起業計画が動き出したのは1900年(明治33年)のことであるが、これに続いて同じ宮崎県の都城市(当時は北諸県郡都城町)でも1904年(明治37年)に電気事業の起業計画が浮上した。 都城の電気事業計画は町内有志の手によるもので、電源として都城の西方、鹿児島県囎唹郡財部村(現・曽於市)の大淀川水系桐原川(溝ノ口川)での水力開発を企画して鹿児島県知事に水利権を申請した。財部村民の反対運動や2度にわたる競願者の出現で認可が遅れるが、1908年(明治41年)11月に水利権を取得。続いて競願者も発起人に加え都城電気の電気事業経営許可を逓信省へ申請し、1909年(明治42年)3月23日付でその許可も得た。これらを受けて会社設立の準備が進められ、同年6月10日に都城電気株式会社の創立総会開催に至った。発足時の資本金は15万円であった。 会社設立後、桐原川で溝ノ口発電所(出力200キロワット、現九州電力溝之口発電所)を着工。ドイツ・シーメンス製の機器を取り付けて発電所は翌1910年(明治43年)5月に竣工した。逓信省の資料によると都城電気は同年7月1日付で開業し、年内までに都城町内と隣の五十市村での供給を始めた。7月13日には小松原公園にて電灯1400灯・アーク灯2灯をともした盛大な開業祝賀会を開催している。開業当初の電灯需要家は350戸余り、灯数は1340個以上で、開業以後も歩兵第64連隊兵営への供給開始など多忙で電灯取り付けは順番待ちとなる盛況であったという。電灯のほか動力用電力の供給も行っており、精米業に多く利用されたほか、会社では商店や料理店へ扇風機を売り込んでいる。 こうした需要増のため1912年(明治45年)6月、35万円の増資と菱田川水系月野川での新発電所建設を決定し、1914年(大正3年)2月に囎唹郡月野村(現・曽於市)にて月野発電所(出力320キロワット、現九州電力月野発電所)を着工した。ところが第一次世界大戦の勃発によりドイツに発注していた機器類が調達できなくなり、国内メーカー(電業社・芝浦製作所)へと振り替えたことで納入が遅れたため、1916年(大正5年)6月の竣工となった。月野発電所竣工により供給力に余裕が生じ、供給区域の拡張とあいまって需要が増加して電灯供給は1917年(大正6年)に1万戸・2万灯、1919年(大正8年)には3万灯を超えるに至った。 月野発電所建設中の1915年(大正4年)4月1日、都城電気は鹿児島県囎唹郡志布志町(現・志布志市)所在の志布志電気株式会社を合併した。合併に伴う増資は2万5千円。同社は吸入式ガス機関による火力発電を電源とし、電灯約1000灯を供給していた。また1919年(大正8年)7月には天降川水系霧島川に水利権を持つ高千穂電気軌道株式会社を合併している。都城電気は同社から水利権を引き継ぎ1922年(大正11年)1月に霧島第二発電所(出力550キロワット、現九州電力霧島第二発電所)を新設した。また合併や増資により資本金は最終的に200万円となった。
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