都城発進の特攻隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 14:40 UTC 版)
「都城東・西飛行場」の記事における「都城発進の特攻隊」の解説
米軍は本土空襲を重ねたのち、総兵力55万、軍艦補助艦等、計1,500隻(上陸用舟艇)を以て4月1日に沖縄本島西岸の読売および嘉手納海岸に本格的な上陸を開始したが、これ以降約3ヵ月に渡る全軍沖縄特攻出撃が行われることになる。 都城飛行場出撃の特攻第一陣は、『第1特別振武隊』である。比島作戦の終末、第30戦闘飛行団の精華隊33機はその猛烈な全力特攻によって敵の心胆を寒からしめた。今回4月6日の第一次航空総攻撃(菊水一号作戦)の初陣を飾る現地戦闘隊編成の精鋭特攻隊であった。 当時、作戦準備が整わない第6航空軍には手持ちの特攻隊が少なく第101・102両戦隊から志願した10名らがその急をすくった。 第1特別振武隊は坊ノ岬沖海戦の前日、4月6日午後2時20分に西飛行場から出撃したがこの日、第6航空軍司令官菅原道大中将は同地に赴きその出撃を見送り激励した。当日、第6航空軍が用いた兵力は全部で54機であったが、その一翼としてこの西飛行場から出撃した第1特別振武隊の戦没者は、隊長林弘少尉を初め、8名であった。次いで4月12日、第二次航空総攻撃に当たり同隊から2機が敵艦群に突入戦没した。 4月上旬、第60・61振武隊の隊員各12名が都城に到着したが、機体の生産が間に合わず両隊には搭乗機がなかった。第60振武隊は明野で、隊61振武隊は常陸で編成され各地を転々とし都城に着いていた。隊員は駅前の特攻宿舎『舎千亭』に宿泊し、出撃までの日々を第60は東飛行場で、第61は西飛行場で訓練を重ねた。立川、宇都宮等で製造された特攻機は空輸パイロットにより都城に届けられた。 4月28日、第五次航空総攻撃では第60振武隊が早暁、西飛行場から出撃の予定であった。27日、B-29による約130発の弾痕は地上勤務員の必死の努力でその日のうちにほぼ復旧したが、28日にも再び来襲し約300発を投下したため、当日西飛行場からの出撃は不能になった。そこで救急、東飛行場に転進した同隊は午後4時15分東飛行場を出撃、隊長岡本勇少尉以下7名が突入に成功した。因みに当日第6航空軍から参加した特攻機は全部で36機であった。 翌29日、西飛行場はまたもやB-29による爆撃を受け、地上での炎上3機、中破5機、その他多くの被弾機を生じた。また、飛行団司令部が直撃弾を受けた関係もあって、死傷者は18名におよんだ。 5月4日、沖縄32軍のこれ迄の持久戦略から一転した総攻撃に呼応した第六次航空総攻撃に当って、午前6時、第60振武隊が東飛行場から出撃した。草垣島から島々を経て沖縄へ向かった同隊は、隊長平柳芳郎以下6名が8時32分から42分の間に突入に成功したものと認められた。 5月11日、第七次航空総攻撃に第60・61振武隊の6名が出撃、散華した。当日天候は不連続線が台湾海峡にあって九州は所によって雨、沖縄は晴れ後曇りでこの日、軍は80機準備したものの、実施は16機となった。 5月25日も、天候不良であったが、義烈空挺隊の戦果を利用する第八次航空総攻撃が決行された。この日第6航空軍が出した航空機は70機におよんだが、この都城からは午前5時、東飛行場より第57振武隊の隊長伊東喜得少尉以下、11名、次いで第58振武隊の隊長高柳隆少尉以下、10名および残されていた第60・61振武隊の2名からなる計23機が突入した。全機、四式戦装備の精鋭部隊であった。 5月28日の第九次航空総攻撃は、海軍側が敵機動部隊北上の情報によりこれに対して兵力を出し得なかったため、陸軍主体の攻撃となり特攻機57機を出撃させ、都城からは第59振武隊が東飛行場から、西飛行場からは第58振武隊4機が出撃した。 6月に入り、第32軍の危急を救う第十次航空総攻撃が継続された。当日8日、第59振武隊長野口肇太郎少尉以下、6名が東飛行場より出撃し、沖縄周辺の敵艦船群に突入散華した。 天号作戦最後の航空総攻撃において6月21日、第26振武隊は隊長相良鉢郎中尉以下、4名が東飛行場より出撃。続いて22日、第27振武隊が隊長川村勝中尉以下、6名。第79振武隊隊長金丸享中尉以下、5名が東飛行場より出撃、特攻散華した。 そして7月1日午前6時30分、第6航空軍最後の特攻隊となった第180振武隊が東飛行場を出撃し、2機が慶良間泊地の敵艦船に突入した。 都城特攻基地を発進した特攻機は全部で10隊、79名であった。これは九州方面から出撃した陸軍特攻隊数の約10%に過ぎなかったが、ここでは際立った特色が2つあった。それは編成人員に対して特攻戦没者の率が高いこと、使用機種が全て当時の最新鋭機とされた四式戦(疾風)であったことの2点である。 第100飛行団は5月25日の航空総攻撃で全出動兵力を失い、この不足を補うため5月27日ごろ、飛行第47戦隊が第100飛行団の指揮下に入り、四式戦36機をもって都城西飛行場に展開した。沖美作戦に精魂を傾けた第100飛行団は、7月下旬、四国方面の決号作戦準備のため高松に去り、飛行第47戦隊は熊本の第31戦闘飛行集団長の指揮下に入った。代わって、本土決戦における特攻運用を主任務とする第21飛行団がここに進出し、都城基地における最後の飛行団となった。
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