都城特攻基地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 14:40 UTC 版)
太平洋戦争末期、沖縄攻防戦の始まった1945年(昭和20年)4月、南九州に於ける陸海軍の各航空基地から日夜続々と特攻機が飛び立っていた。当時、宮崎県の軍都、都城市の郊外に特攻基地として『都城東飛行場』と『都城西飛行場』の2つがあった。 西飛行場には、1944年(昭和19年)から明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が展開してここに一区隊が陸士五七期と甲幹部候補生転科の少尉と、特操一期生の少尉、そして二区隊が少年飛行兵出身の下士官の、二隊があり、一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施していた。 同年夏、中国奥地成都からのB-29の北九州来襲を皮切りに、以来数次に亘って迎撃任務についたこともあったが、概して平和な訓練基地であった。飛行場はほぼ、正方形で対角線上に舗装のない滑走路が作られており、20年4月までに1,200メートルの長さに延長された。 東飛行場は、1944年の前半に海軍が地元住民の協力を得て、沖水川流域の田園を飛行場に急造したものである。完成後この飛行場では零戦が訓練を行っていたといわれるが、1945年3月に第100飛行団(100FB)隷下の第101戦隊の展開以後は、専ら陸軍専用の基地となった。この飛行場は表面が荒れており一見、飛行場とは見えなかった。飛行場周辺は蛸の足のように誘導路があり、特攻機はこれを伝って森林や山裾の影の掩体に潜んでいた。このためか西飛行場のような激しい空襲を受けることもなく最後までこの基地から次々と特攻機が出撃していった。
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