都城方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
別働第3旅団は7月24日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、防守の堀与八朗指揮の雷撃隊、干城隊、正義隊、協同隊の混成部隊を撃破、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。薩軍が都城に退却したため、別働第3旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。 第4旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第3旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第4旅団は都城に入ることができた。別働第1旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見)・行進隊(相良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。 都城守備の薩軍総指揮官は村田新八で、官軍が都城近郊に接近するのを待ち、決戦を予定していたが、官軍の進撃が予想外に速かったため、陣容を整備して立ち直る余裕がなかった。都城には、財部実秋などの都城隊が守備についたが、兵力の消耗により火器類は殆ど装備されておらず、抵抗する力もなく都城を放棄せざるを得なかった。 要所である庄内方面・財部方面が征討軍に占領された結果、都城の各方面で薩軍は総崩れとなり、この日官軍は都城を完全に占領した。これ以降、薩軍は征討軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を征討軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。
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