最後の飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 05:19 UTC 版)
「F-15 (航空機・初代)」の記事における「最後の飛行」の解説
驚くことに全てのP-61シリーズの中で最後まで飛行可能だった機体は、最初の量産モデルのリポーターとして製造された希少なF-15A リポーター (RF-61C) (s/n 45-59300)であった。この機体は1946年5月15日に完成し、陸軍航空軍と後の空軍で1948年2月6日まで使用され、カリフォルニア州のモフェット飛行場にあるエイムズ研究センターに再配備された。そこで実験体の空中投下用スケールモデルを投下する母機に改装された。この機体は、1953年に同じテストが巨大な風洞で行われるようになるまでこの任務に使用された。1955年4月にこのF-15は「補修部品」のF-61C (s/n 43-8357)と共に余剰物資としてガーデナのステュワード=デーヴィス社(Steward-Davis Incorporated)に売却され、民間登録記号N5093Vが与えられた。P-61Cを再販売することができなかったため、同社は1957年にこの機体を廃棄処分にした。ステュワード=デーヴィス社は、飛行調査に適するようにこのリポーターにキャノピーをロッキード T-33から、プロペラをより古いP-61から取り外してきた物と交換するなどの幾つかの改造を施した。この機は1956年9月にメキシコシティのカンパーニャ・メキシカン・アエロフォト社(Compania Mexicana Aerofoto S. A.)に売却され、メキシコの登録記号XB-FUJが与えられた。このリポーターは飛行調査活動という元々この機体が目的としていた任務に合致する目的に使用された。カリフォルニア州のエアロ・エンタープライズ・オブ・ウィレッツ社(Aero Enterprises Inc. of Willets)に買い上げられ、1964年1月に米国に戻ってくると民間登録記号N9768Zが与えられた。胴体内の燃料タンクとターボスーパーチャジャー用インタークーラーが外され、火災消火用に1,600 gal (6,056 l)の薬剤タンクが取り付けられた。1964年終わりにフレズノのCal-Natにより購入され、続く3年半を火災消火用航空機として使用された。1968年3月にトゥーレアリの空中火災消火会社のTBM社(TBM, Inc.、この社名は同社が以前使用していた主要機材のTBM アヴェンジャーに由来していた)がこのF-15を購入し、性能改善のために様々な型式のプロペラを試す等の改造を施した。最後には後期のロッキード コンステレーションから外したカーティス・エレクトリック製34型プロペラに決まった。 1968年9月6日、F-15の操縦資格を持つ3名の民間パイロットの一人ラルフ・ポンテ(Ralph Ponte)はホリスター近郊の火災現場で通常の消化剤投下飛行を行っていた。現場回帰時間の短縮を図るためにポンテは現場近くの小さな飛行場で補給をすることに決めた。滑走路はフレズノよりも短く、機の搭載量を減らしたにもかかわらず、近くの火災現場から吹きつける熱気が辺りの空気密度を下げ機体を過重状態にしていた。最大出力でもリポーターは3,500 ft (1,067 m)地点を滑走しなお機首上げができず、ポンテはすぐさま離陸を中断することに決めた。機体を直進させるためのあらゆる努力がなされたがリポーターは滑走路を外れ野菜畑を通過した後、土手に激突して降着装置は引きちぎられた。その後、機体は横滑りし止まり火災を起こした。ポンテが無傷で破れたキャノピーから緊急脱出する一方、消火機のTBM アヴェンジャーが発火した2基のエンジンの上に消化剤を投下して、おそらくこれがポンテの命を救った。F-15は原形を留めていたが修復するには損傷が大き過ぎると考えられ、直ぐに廃棄処分にされた。ノースロップ社の、最も成功した機種中の1機の最後であった。
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