最後の首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/29 04:45 UTC 版)
「ニコライ・ゴリツィン」の記事における「最後の首相」の解説
1917年1月7日(ユリウス暦1916年12月27日)に、首相アレクサンドル・トレポフは、アレクサンドラやグリゴリー・ラスプーチンが支持するアレクサンドル・プロトポポフの内務大臣続投を巡り対立し解任され、1月9日(ユリウス暦1916年12月29日)にゴリツィンが後任の首相に任命された。ゴリツィンは準備不足を理由に固辞したが、ニコライ2世に拒否されている。ゴリツィンは首相就任後、ニコライ2世の意向に反して教育大臣パーヴェル・イグナチェフ、軍需大臣ドミトリー・シューバエフ(英語版)を罷免した。 3月8日(ユリウス暦2月23日)に二月革命が発生するが、ゴリツィンは暴動を抑えることが出来ずにいた。ペトログラードではゴリツィン内閣の求心力は失われ、ドゥーマとペトログラード・ソヴィエト(英語版)が権力を掌握していた。ニコライ2世はロシア軍に暴動の鎮圧を命令するが、これに反してロシア軍の一部から暴動側に寝返る部隊が現れた。これに対し、ドゥーマ議長ミハイル・ロジャンコはゴリツィン内閣に代わる新内閣の発足を求めるが、ニコライ2世はこれを拒否してドゥーマを解散させたが、ロジャンコは解散を拒否してロシア国会臨時委員会(英語版)を樹立した。 3月11日(ユリウス暦2月27日)にゴリツィンはマリインスキー宮殿で閣議を開き内閣総辞職を決定し、ニコライ2世に辞表を提出した。これを受け、ロジャンコはゴリツィン内閣の閣僚や政府高官の逮捕を指示した。逮捕されたゴリツィンは、翌12日にペトロパヴロフスク要塞に収監され尋問を受けた。3月16日(ユリウス暦3月3日)には臨時委員会に代わり、ゲオルギー・リヴォフを首相とするロシア臨時政府が樹立された。 十月革命後に釈放されたゴリツィンはロシアに留まり、靴の修理と菜園の維持管理で生計を立てた。しかし、OGPUからは危険人物として監視され続け、1920年から1924年の間に反革命の容疑で二度逮捕されている。1925年2月25日に三度目の逮捕を受け、「反革命運動を組織した」という理由により7月2日にレニングラードで処刑された。2004年に名誉回復されている。
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