ミハイル・ロジャンコとは? わかりやすく解説

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ミハイル・ロジャンコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 09:38 UTC 版)

Mikhail Rodzyanko in 1917

ミハイル・ウラジーミロヴィッチ・ロジャンコМихаи́л Влади́мирович Родзя́нкоMikhail Vladimirovich Rodzianko1859年1924年1月24日)は、帝政ロシア政治家。「10月17日同盟」(十月党、オクチャブリスト)の創設者の一人。

第3国会(ドゥーマ)副議長を経て、1911年アレクサンドル・グチコフの後任として国会議長に選出され、1917年2月に国会が解散されるまで議長を務めた。ロジャンコは、ロシア帝国末期の有力政治家の一人と見なされ1917年ロシア革命(二月革命)以降は、国会臨時委員会w:Provisional Committee of the State Dumaを主宰した他、皇帝ニコライ2世に対して退位を勧告している。その後1920年ユーゴスラビアに亡命し、そこで死去した。

ロジャンコの甥に当たるアレクサンドル・ロジャンコ(w:Aleksandr Rodzyanko)は、1912年のストックホルムオリンピック馬術障碍で出場し5位に入賞、白軍の指導者として国内戦を闘った。

先代
アレクサンドル・グチコフ
ロシア国会議長
1911年 - 1917年
次代
-




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