オクチャブリスト党首
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 18:38 UTC 版)
「アレクサンドル・グチコフ」の記事における「オクチャブリスト党首」の解説
グチコフは、資本主義の推進者で大手保険会社を経営していた。1906年10月、10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)の党首となる。また、それ以前にグチコフはボーア戦争にボーア人側に立って従軍したことで知られていた。グチコフは、戦傷を負い捕虜となった後も、再びボーア側に志願し、奉天会戦で捕虜になったロシア人の世話をした他、各戦線を回った。 1907年2月、グチコフは第二国会に立候補した。この選挙でオクチャブリストはグチコフを含む43名の代議員を当選させた。グチコフはストルイピン首相とストルイピンが実施した一連の改革(いわゆるストルイピン改革)を支持した。しかしストルイピン改革の中身や軍事法廷設置・第二国会解散をめぐり、オクチャブリスト党内で政府に対する支持・不支持をめぐり論争が繰り広げられた。グチコフもパーヴェル・リャブシンスキーなどと論争している。 しかし、ストルイピン主導による選挙法改正により、第三国会における選挙でオクチャブリストは133議席を獲得し第一党に躍進した。こうしてオクチャブリストは選挙後の第三国会でツァーリ政府の与党的存在になる。しかしグチコフ自身は選挙後、選挙に介入した当局を批判し、皇帝に異議を唱えたためストルイピンの支持を失った。グチコフは、黒百人組と極右君主主義者の支持を得た。1910年国会議長に選出された。1911年議長を辞任し、後任には同じくオクチャブリストのミハイル・ロジャンコが選出された。ストルイピンとの意見の相違にもかかわらず、グチコフはストルイピンに対して高い評価を持ち続けた。1911年9月ストルイピンが暗殺されると、グチコフはロシアは沼地にはまったと語った。
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