オクチャブリストの危機と第一次世界大戦
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「アレクサンドル・グチコフ」の記事における「オクチャブリストの危機と第一次世界大戦」の解説
1912年、第四国会選挙でオクチャブリストは選挙前より30以上議席を失った。グチコフ自身モスクワ選挙区で落選し、議席を失った。選挙後、オクチャブリストは党内抗争を開始し二派に分裂した。 1914年第一次世界大戦が勃発。1915年多くの地方政党支部と主要政党による新聞「モスクワの声」紙が廃刊に追い込まれた。しかし、グチコフは政治活動を決して止めず、大戦中、軍需物資の軍への供給のため産業界の首脳によって組織された中央戦時工業委員会に参加した。 国会内にオクチャブリストと立憲民主党(カデット)により「進歩ブロック」が結成される。グチコフは同ブロックの創設者の1人であった。進歩ブロックは大臣に対して国会に対する責任の確立を要求した。しかし、皇后アレクサンドラとラスプーチンの反対でニコライ2世は進歩ブロックの要求を拒否した。グチコフは後にこの当時について、進歩ブロックのメンバーがクーデターを計画したが実行には移さなかった、と回想している。事実、誰もが帝政を維持することは不可能だと悟った。1917年3月2日、ワシリー・シュリギンとともにプスコフの大本営を訪れ、ニコライ2世に退位するよう説得したのは、グチコフだった。
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