アレクサンドル・クラーキンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 海外の政治家 > 帝政ロシアの政治家 > アレクサンドル・クラーキンの意味・解説 

アレクサンドル・クラーキン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 07:55 UTC 版)

アレクサンドル・クラーキン

アレクサンドル・ボリソヴィッチ・クラーキン公爵Александр Борисович КуракинAlexandr Borisovich Kurakin、または、Kourakine1752年1月18日 - 1818年6月24日)は、帝政ロシア政治家外交官。駐在オーストリア公使フランス公使、国家評議会議員(1810年から)、枢密顧問官などを歴任した。レフ・トルストイの「戦争と平和」の登場人物、クラーギン公爵(Kuragin)として登場している。

経歴

1752年1月18日モスクワに生まれる。クラーキン家は代々外交官を輩出してきた家柄で、ピョートル大帝に仕えた外交官ボリス・クラーキンは曽祖父にあたる。1764年父のボリス・アレクサンドロヴィッチ・クラーキンが死去し、サンクトペテルブルクに移る。ペテルブルクでクラーキンは皇太子パーヴェル・ペトローヴィチ大公(後の皇帝パーヴェル1世)の宮廷に仕えた。パーヴェルの知遇を得たクラーキンは、パーヴェルのよき友人の一人であったが、それは長くは続かなかった。女帝エカチェリーナ2世によってクラーキンは、在外公館に派遣されたためである。

1796年にエカテリーナ2世が死去し、パーヴェル1世が即位すると、クラーキンは帰国して副宰相に任命され、パーヴェルの宮廷に仕えることになる。パーヴェル1世の暗殺後にアレクサンドル1世にも仕え、この間1806年に駐在オーストリア公使1808年に駐公使として、ナポレオン戦争に直面することとなる。1807年ティルジットの和約締結に当たっては、ロシア側代表として講和会議に出席している。

1810年以降、クラーキンはアレキサンドル1世に対して多くの書簡を提出し、フランスとの戦争が不可避であることを警告し続けた。ナポレオンがロシア遠征を準備中であることを察知したクラーキンは、1812年4月15日ナポレオンと会談の上で、露仏間の外交関係を打開を試みた。大陸軍の進発後にクラーキンは公使を辞任した。

クラーキンは衣装道楽として知られ、パリ赴任中、華麗で贅を尽くした衣装から「ダイヤモンド公爵」の異名をとった。1810年7月1日、駐仏オーストリア公使シュヴァルツェンベルク (en主催の舞踏会で起こった火事では、避難するときに倒れて火傷を負ったが、豪奢な衣装によって一命を取り留めたという。

アレクサンドル1世、ニコライ1世に仕えて法典編纂事業に尽力したミハイル・スペランスキーを見出した人物としても知られる。

フランスのレストランで従来のフランス式サービスを止めて、温かい料理を徐々に出して行くロシア式サービス(en)(時間差フルコース)を紹介したことでも知られる。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アレクサンドル・クラーキン」の関連用語

アレクサンドル・クラーキンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アレクサンドル・クラーキンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアレクサンドル・クラーキン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS