生い立ち、官界入り、初期の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 20:12 UTC 版)
「ミハイル・スペランスキー」の記事における「生い立ち、官界入り、初期の改革」の解説
1772年1月1日ウラジーミル県に村司祭の子として生まれる。地元の神学校を経て、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー神学大学を卒業し、同大学教授となり数学と物理学を教えた。1806年スペランスキーの才気縦横な知性は、ロシア政府に注目されることとなり、アレクサンドル・クラーキン公爵の秘書となった。クラーキン公に仕官後は、官僚としてその有能さを随所に発揮することとなる。 1807年皇帝アレクサンドル1世がエルフルトでフランス皇帝ナポレオン1世で会談した際、スペランスキーはアレクサンドルの随員として皇帝に同行したが、この時にナポレオンと直接話す機会を得た。ナポレオンとの出会いはスペランスキーの生涯における一大転機となった。ナポレオンはスペランスキーをロシア唯一の明晰な頭脳の持ち主と評し、アレクサンドル1世の求めに応じてロシア社会の改革について話し合ったと記している。 皇帝アレクサンドル1世は治世の当初、ロシアに立憲制・憲法導入を基軸とする法制及び国制改革を企図していた。アレクサンドルは、スペランスキーを自らの顧問として改革に着手した。スペランスキー改革w:Government reform of Alexander Iは、憲法制定とドゥーマ(国会)開設を基礎とするものであった。スペランスキーは、各地方に選挙制議会としてドゥーマを設置し、地方のドゥーマの頂点にいわば帝国議会とも言える全国ドゥーマを設け、各下級議会は、上級議会に対して議員を選出する制度を構想した。すなわち村から郡、郡から県、県から全国ドゥーマへ代議員を送る四段階選挙による自治制度の導入である。 1809年には官僚昇進試験制度を導入したが、これは貴族、保守層の怨嗟の的となった。1810年1月国家評議会(参議院とも訳される場合あり)を創設した。国家評議会は19世紀から20世紀初頭、皇帝専制(ツァーリズム)が濃厚なロシアにあって限定的とはいえ立憲的政治制度として機能した。以上の改革は、ロシアの内閣を始めとする行政機関、官僚制の基礎形成に大きな寄与を成した。ドゥーマの名称を推したのはスペランスキーであったし、1864年地方自治機関として導入されたゼムストヴォもスペランスキーの構想であった。スペランスキーの立憲制導入を目指した努力は、ロシア帝国の支配下に組み込まれたポーランド立憲王国およびフィンランド大公国に対する皇帝アレクサンドル1世による憲法発布として結実した。
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