スペランスキー改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:29 UTC 版)
「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「スペランスキー改革」の解説
1801年に開始された立憲制導入を目標とする法制改革、国制改革はミハイル・スペランスキーによって担われることとなった。アレクサンドル1世から改革案作成を命じられたスペランスキーは、極めて大胆な「国家改造」とも呼べる法制改革案を提案した。改革案では基本姿勢として、憲法の制定、皇帝の下での立法・行政・司法の各国家機関の整備、法の支配による立憲君主制の確立が掲げられた。具体的には、皇帝の任命による国家評議会と、間接選挙による国会(ドゥーマ)の設立であった。 しかし、スペランスキーの国制改革案はあまりにも時期尚早であり、アレクサンドル1世のお気に入りの妹で帝位に執着を見せていたエカテリーナ・パーヴロヴナ大公女をはじめ、貴族・官僚層の憤激を買った。スペランスキーへの排斥が激化する中で、アレクサンドル1世は国制改革の推進に躊躇するようになる。また、彼の念頭にはナポレオン・ボナパルトとの関係悪化があった。アレクサンドル1世はナポレオンとの対決に備え、国内における対立に終止符を打つ必要性に迫られた。1812年3月、スペランスキーは国家顧問を解任され、ニジニ・ノヴゴロドに追放された。
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