生い立ち、家系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:30 UTC 版)
京都・伏見のヤクザ寺村組の初代組長を父に、大阪・釜ヶ崎の博徒の娘を母に持った、4人きょうだいの末子である。父の宮崎清親(旧姓・寺村)は京都府の南端、木津川沿いの綴喜郡井手村(いまの井手町玉水)の貧しい農家の次男坊であり、10代の初めに京都に出てきた。戦後になってから中島源之介の中島会(のちに中島連合会)と正式に関わりをもって盃をうけ、ヤクザの世界に加わる。父は博徒であったが、その一方で鳶や土方を数十人抱える解体屋寺村組の親方でもあった。宮崎が物心ついた頃には、父は30 - 40人の組員を抱えていた。 母もヤクザの血を引いていた。母は元来、和歌山県の貧農の出であるが、父親が大阪の萩ノ茶屋に出てヤクザ渡世を送ったために釜ヶ崎周辺のスラムで生まれ育った。宮崎は祖父には、一度も会ったことがない。うだつの上がらない極道だったようで、母の姉3人は身売りされたり、子供の頃から働かされたりの、お定まりの極貧ぶりだった。母も、当時のスラムの花形産業であったマッチづくりの仕事に5、6歳の頃から追われ、尋常小学校にも通えなかった。それでも親の目を盗んで時折学校に行き、窓の外から同級生の授業を聞いていたという。読み書きは独学だった。父方、母方とも、社会の底辺に蠢く家系であった。 宮崎本人は被差別部落の生まれではないが、著書『近代の奈落』(2002年、解放出版社・解放同盟の機関誌『部落解放』に当時連載された)で、父が「京都府綴喜郡井手町の被差別部落の出身で、スリの頭目だった」という父の知人の証言を紹介。以来、自らを部落民と規定している。
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