生い立ち、政治家としての初期の活動
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「ジョン・A・マクドナルド」の記事における「生い立ち、政治家としての初期の活動」の解説
1815年1月11日、イギリス・スコットランドのグラスゴーで生まれる。イギリスの登記所には1月10日と記録されているが、家族は息子の出生日を修復した。1811年10月21日にヘレンと結婚した父のヒュー・マクドナルドは商人であるが、商人としては成功しなかった。 1820年にアッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)キングストンに移民し、その他大勢の人間たちとともに手頃な土地を探し、繁栄の約束をする。1834年に弁護士として開業する。その後すぐ連合カナダ(Province of Canada)議会に議員として選出され、1847年には当時のドレイパー(William Henry Draper)政権で歳入役(receiver-General)に任命される。1854年自由保守党設立、新政権誕生に寄与し、司法長官(Attorney-General)に任命され、しばしば首相よりもリーダーシップを発揮することも多かった。その後の選挙でケベック州のエティエン・パスカル・タッシェと共に1856年から1857年の「連合カナダ共同首相」(Joint Premier of the Province of Canada)に選出された。タッシェはその後辞職し、ジョルジュ・エティエン・カルティエに引き継がれた。このマクドナルド=カルティエ政権は1858年の選挙で敗北し下野したが、当時のカナダ総督がカルティエを上級首相に任命したので、カルティエはマクドナルドともに共同上級首相となった。マクドナルドはカナダ内の植民地間の通信制度及び長距離鉄道の敷設に尽力した。この共同政権は1862年に再び選挙で敗北、下野し、マクドナルドは野党のリーダーとして務めた。
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