生い立ち、教育、学生時代の活動
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「久米宏」の記事における「生い立ち、教育、学生時代の活動」の解説
(太平洋戦争末期の)1944年(昭和19年)7月14日、エンジニアを父に、両親が疎開していた埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)で誕生。姉3人の下の末っ子。戦時中は埼玉県児玉郡に疎開。なお父親は国鉄と東芝のエンジニアで留守がちだったため、姉のスカートを縫い直した半ズボンをはいて「女の館に育った」と自身語っており、幼少時から女性の性(さが)を知っていた環境が、久米の感性に影響を与えたことは間違いないという。戦後は、東京都品川区北品川で幼少時代を過ごす。 品川区立城南第二小学校(同校では丹羽雄哉と同級生で、丹羽は後に政治家となる)。武蔵工業大学付属中学校(現:東京都市大学付属中学校)卒業(1960年・昭和35年)。東京都立大学附属高等学校卒業(1963年・昭和38年)。高校在校中はアルバイトと勉強に明け暮れる。早稲田大学政治経済学部経済学科入学。 早大では演劇サークル「劇団木霊」に所属し演劇に熱中。 1967年(昭和42年)3月、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。尚、就職活動でアナウンサー職を志した動機について、後に人から尋ねられると、本人は「学生時代、演劇活動に明け暮れ、成績が悪く、一流企業の推薦が取れなかったから」と面白おかしく語ってみせたが、当時(も)マスコミやアナウンサーの志望者の倍率は高騰しており「記念受験」程度の姿勢で受かるものでなかったのに、その高倍率を勝ち抜き、見事に合格・採用となった。
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生い立ち、教育、学生時代の活動
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「小倉智昭」の記事における「生い立ち、教育、学生時代の活動」の解説
帝国石油の技術者だった父親と、鹿児島市出身の母親のもと、当時の父の赴任先だった秋田県 で第一子長女である姉に次ぐ第二子長男として生まれた。祖父は宮大工。小学2、3年生の時に東京・新宿へ移り、高清水小4年生から再び秋田へ。中学進学後再び東京へ移った。 世田谷区立梅丘中学校出身。「友達を多くつくるために、勉強よりも体を鍛えること」という父親の方針のもとで育ち、子供の頃からスポーツ好きだった。そのため陸上競技の記録を伸ばすことばかり夢中になり、成績は体育だけが跳び抜けて良く、それ以外は平凡なものであった。陸上では世田谷区大会で優勝したことがある。中央大学附属高等学校では陸上部に所属。高校生時代は100m走で10秒9の記録を出したこともある。ある日父が学校に「陸上部辞めたら学校も辞めなければいけないんでしょうか」と相談しに来たことを聞き、これをきっかけに勉強と陸上の両方を頑張るようになった。大学進学時、そのまま中央大学に進学するものと思われていたが「スペイン語を学びたい」と言い出し、また中央大学には「陸上部で嫌いだった先輩が行ったから」という理由で進学せず、上智大学を受験するも不合格。最終的に獨協大学外国語学部フランス語学科へ進学した。獨協大学でも陸上部に所属し陸上競技会に出場した後、東京都陸上競技連盟から国体出場の通知を受けたこともある。しかし大学陸上部は2年で退部。足を怪我したことや、当時バンド活動で十分稼げるようになっていたからだという。バンドではボーカルとベースを担当、デパートの屋上のビアガーデンでビートルズの曲を演奏するアルバイトをやっていた。幼い頃から吃音症に悩まされ、また秋田出身であることから訛りもひどかったこともあり後にアナウンサー職に就いたのは、吃音を克服するため、あえて喋ることを仕事とする道を志したためであるという。 就職活動のアナウンサー試験では文化放送は1次選考、フジテレビは最終選考で不合格。東京12チャンネル のアナウンサー職で合格・採用。入社試験に合格した決め手は、フリートーク試験のお題が競馬だったからだと言う(当時東京12チャンネルが、競馬のアナウンサーが欲しかったみたいだったからとも話している)。よく似た経歴の持ち主に、元秋田テレビアナウンサーの鈴木陽悦がいる。
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