生い立ち、弁護士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:27 UTC 版)
アメリカ統治時代の1946年9月1日に慶尚南道金海郡(現、金海市)進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)村(マウル)の貧しい農家である父、盧判石(ノ・パンソック)、母、李順礼(イ・スンレ)の三男二女の末っ子に生まれる。母親は身ごもっている最中に胎夢(英語版)を見たという。6歳ですでに千字文を諳んじた神童であった。テチャン小学校の学籍簿には『小農で生活は下流』と記されたが、小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争うほどだった。しかし、貧困により1年の休学を余儀なくされている。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、長兄盧英鉉の強い説得と助力もあり、1963年に名門の釜山商業高校(朝鮮語版)(現:開成高校)に進学。警備員のバイトをして日銭を稼いだ。当時商業学校からの花形コースであった銀行マンを志し、農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する。盧武鉉は自著に、貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となったと記している。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、故郷に帰って村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。1968年から1971年の兵役をはさんで勉強を続け、1975年に29歳で第17回司法試験に合格した後、盧に他の道が開けた。 司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。当初は登記業務・不動産・租税関連の訴訟を専門とし、ヨットが趣味で琵琶湖でのイベントに参加するなど、釜山でも稼ぎのいいブルジョア弁護士の盧弁(ノビョン、盧弁護士)として知られていた。 しかし1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けて学生運動に関わった事が転機となり、徐々に政治、社会問題への関わりを深めて路弁(アスファルト弁護士)に変貌した。1982年にはこの年に弁護士になった文在寅が盧武鉉の法律事務所に入所し、「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開設(後に文在寅は盧武鉉大統領の下で大統領府民情主席、大統領秘書室長などを務める)。1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当。1985年には釜山民主市民協議会の常任委員長となり、本格的に韓国の民主化運動に足を踏み入れた。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったと自著に記している。
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