生い立ち、幼少期、教育
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「グリエルモ・マルコーニ」の記事における「生い立ち、幼少期、教育」の解説
生い立ち ジュゼッペ・マルコーニ(Giuseppe Marconi)と、アニー・ジェームソン(Annie Jameson)の次男として、1874年4月25日にボローニャで誕生。フルネームはグリエルモ・ジョヴァンニ・マリア・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi)。父ジュゼッペはイタリアのポッレッタ・テルメ出身のボローニャの裕福な地主。母アニーはアイルランド人で ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー (Jameson Whiskey distillery) の創業者の曾孫。 グリエルモにはアルフォンソ(Alfonso)という兄がいる。(なお、ジュゼッペにとってアニーは再婚相手で、グリエルモは、父親から見て3人の男の子の一番下の子で、母親から見ても末っ子である。グリエルモの立場からすると、ルイージ(Luigi)という母親違いの兄もいたようである。) グリエルモが2歳から6歳の間は、兄アルフォンソや母アニーとともにイングランドのベッドフォードで暮らした。 教育 マルコーニはとても裕福な家庭の生まれであり、一般人のように学校にはほとんど通わなかったが、。両親が家庭教師を何人も雇ってくれたおかげで、数学や物理、化学などをマンツーマンで学ぶことができた。また、マルコーニ母子には、秋や冬に母アニーの姉妹の住むリヴォルノ(トスカーナの町)に毎年のように滞在していた時期があったが、この地でアニーは、愛しい末っ子のグリエルモのために、ヴィンツェンツォ・ローザ(Vincenzo Rosa)という、現地のリチェオ・ニッコリーニ(Liceo Niccolini。「ニッコリーニ高校」)で物理と数学を教えている男性教師を雇うことを決めた。マルコーニは後年、このローザとの出会いが重要だった、と振り返っている。ローザは、1848年にトリノで生まれ、トリノ王立大学で物理と数学の学位を得た後、イタリア各地の高校やフィレンツェの物理学校などで教えていたが、ヘルツ波に興味があり、科学論文を執筆し、実験装置を所持していた。マルコーニは、17歳の頃、1891年の秋からほぼ1年間、ローザから基本的な物理学や電気工学の理論と応用について個人授業を受けた。したがって、マルコーニは、電気に関する新しい理論をローザから教わり、さらに彼が自宅の研究室に招いてくれたおかげで、様々な実験を行うことができた。(なお、この指導期間の後、別々の道を進むことになった後も、マルコーニとローザの間に育まれた互いへの信頼感や尊敬の念は続いくこととなる。マルコーニはたびたび彼のもとを訪ね、人前でもことあるごとにローザの恩について語った。ローザは結婚し子供も3人得たが、惜しいことに弟子のマルコーニがノーベル賞を受賞するところは見ることができず、受賞の前年の1908年に亡くなった。マルコーニは受賞スピーチでも、独学であった自身の学びにローザが実際に直接的に貢献してくれたことを述べた。) マルコーニは18歳でボローニャに戻ると、ボローニャ大学のアウグスト・リーギ教授と交流を始めた。リーギも重要な役割を果たす人物で、ハインリッヒ・ヘルツについて研究をしていた。彼は自分の講座にマルコーニが参加することを許し、さらに大学の研究室や図書館を使用する許可まで与えた。 マルコーニは、その後フィレンツェのイスティトゥート・カヴァッレーロ(Istituto Cavallero。「カヴァッレーロ高等専門学校」)でも学んだ。
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