生い立ち、旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:52 UTC 版)
「ウィリアム・バージェス」の記事における「生い立ち、旅」の解説
バージェスは、1827年12月2日に、裕福な土木技師アルフレッド・バージェス(1796年-1886年)の息子として生まれた。アルフレッドはその死の時に 113,000 ポンド(2013年のインフレ調整後で 10,422,498 ポンド)ほどの資産を形成していた。息子のバージェスは実際に生活のために稼ぐ必要もなく、その生涯を建築の研究と実行に捧げることができた。 バージェスはロンドンのキングス・カレッジ・スクールに入学し、1839年には工学を勉強した。同級生にはダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやウィリアム・マイケル・ロセッティがいた。1844年に卒業し、ウェストミンスター寺院の営繕技師エドワード・ブロアの事務所に入った。ブロアは名声を得た建築家であり、ウィリアム4世やビクトリア女王のために働き、ゴシック復古調建築の提唱者としての評判を得ていた。1848年あるいは1849年、バージェスはマシュー・ディグビー・ワイアットの事務所に移った。ワイアットはブロアと同じくらい建築家として著名であり、1851年に大博覧会を指揮したときの指導的役割でその仕事が評価されていた。バージェスがワイアットと共に制作した作品の中で、特に博覧会の中世宮廷は、その後の経歴の中に影響を残した。この期間、ワイアットの著作『金属加工』のために中世金属加工品の絵も作成した。その著作はヘンリー・クラットンがイラスト作成で支援し、1852年に出版された。 バージェスのその後の経歴の中で同じくらい重要だったのが旅だった。バージェスは建築家は全て旅をすべきと考え、「異なる時代と異なる人によって様々な芸術上の問題が如何に解決されているかを見ることが絶対的に必要である」と述べていた。私的な収入に支えられ、まずイングランド中を、続いてフランス、ベルギー、オランダ、スイス、ドイツ、スペイン、イタリア、ギリシャ、そして最後はトルコを回った。全体では海外で18か月ほどを費やし、スケッチや描画でその技能と知識を養った。そのとき見たものと描いたものは、その経歴の全体を通じて利用し再利用した影響力とアイディアの蓄えとなった。トルコの先までは行ったことが無かったが、近東と中東の芸術と建築はかなりの影響を与えた。ムーア風のデザインに魅了されていたことは、カーディフ城のアラブ室に表現されており、日本の技術を勉強したことは、後の金属加工に影響した。35歳のときに最初の重要な注文を受けたが、その後の経歴では予測されたような発展が見られなかった。そのスタイルはそれ以前の20年間に及ぶ研究、思考、旅で既に作り上げられていた。バージェス研究では最初の権威であるJ・モードーント・クルックは、「彼の『デザイン言語』を20年間で準備した後に確立させてしまうと単に応用するだけであり、同じ『語彙』に繊細さや嗜好を加えて応用し、再度応用した」と記している。
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