その後の選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/05 04:27 UTC 版)
「ヘンリー・ガードナー」の記事における「その後の選挙」の解説
1855年、ノウ・ナッシングの全国大会は奴隷制度への対し方で分裂した。マサチューセッツ州のヘンリー・ウィルソンを始め著名な反奴隷制度ノウ・ナッシング支持者は、奴隷制度廃止を主要課題とする新党を結成する新たな試みを始めた(1854年に一度失敗していた)。この動きは共和党の結成に繋がり、ノウ・ナッシングとは二党の融合を交渉しようとした。しかし、マサチューセッツ州のノウ・ナッシング指導層は融合を拒み、共和党の指導層は連衡を拒み、ガードナーは融合を支持していたが、多くの共和党員はガードナーの反奴隷制度の考え方については懐疑的だった。両党はそれぞれの候補者を立てることとなり、ノウ・ナッシングの多くの政治家や支持者が同盟先を変えた。秋の選挙では、ガードナーは厳格な移民排斥の綱領で出馬し、総投票数の38%を獲得した。対する共和党のジュリアス・ロックウェルは27%に留まった。絶対多数を得た者を当選者とする選挙法が有効となっており、ガードナーが当選したが、分裂(またノウ・ナッシングの政策を進める集団での不満)のために、元自由土地党や民主党からの支持は減ることになった。1856年の選挙では、ガードナーは共和党との取引で、ノウ・ナッシングが共和党大統領候補のジョン・C・フレモントを支持するのと引き換えに、州知事候補を立てなかった。ガードナーは容易に再選されたが、多くの共和党員がガードナーを支持する代わりに抗議の候補者に投票することになった。ガードナーは共和党の支持をチャールズ・サムナーに代わるアメリカ合衆国上院議員の選挙に利用しようと考えた。上院議員の選出は当時州上院で行われていた。しかし、共和党は1857年の会期冒頭のガードナーの演説前に乗員を操作しており、サムナーが容易に再選された。 国内は1857年恐慌と血を流すカンザスのために割れていたが、同年のマサチューセッツ州の選挙は別の要因が引っかかっていた。ガードナーは共和党(および元ノウ・ナッシング)のナサニエル・プレンティス・バンクスと民主党のエラスムス・ビーチの挑戦を受けた。ガードナーは元ホイッグ党の工業資本家の道具以上のものになっていないと非難され、バンクスは元ノウ・ナッシングの支持者の多くを自陣に取り込むのがうまく、特にジョン・Z・グッドリッチはバンクスの強力な反奴隷制度の姿勢を保証した。ガードナーは地方の問題で争おうとしたが、奴隷制度が中心命題となり、バンクスが余裕をもって当選した。 1858年、ガードナーはノウ・ナッシングの残党と考えられるものと民主党との連衡を画策しようとしたが、適切な候補者を見つけようという試みが失敗した。同年のノウ・ナッシングの候補者エイモス・A・ローレンスは、バンクスに大差を付けられて敗れた。
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